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市指定・史跡

柏崎勝長かしわざきかつなが邸跡

西本町三丁目 香積(こうじゃく)寺
            
柏崎勝長の碑
 謡曲『柏崎』 (室町時代に榎並(えなみ)左衛門五郎が作り、世阿弥(ぜあみ)が改作して完成した狂女物の謡曲)にある柏崎勝長の館跡(やかたあと)。
 柏崎勝長は柏崎の最初の長(おさ)と伝えられるが、その性格は不明である。
 柏崎氏の菩提寺(ぼだいじ)であった香積(こうじゃく)寺は勝長の遺言によって劔野から移転したと伝えられる。
 享保3年(1718)5月22日付善光寺庚申堂(こうしんどう)別当(べっとう)堂照坊より柏崎勝長公と善光寺にまつわる由緒書を受け、寛保3年(1743 )には五百回忌が営まれるなど、柏崎文化発祥の淵源(えんげん)として古くから郷愁の的となっている。

以上 柏崎市教育委員会 編集・発行 「柏崎市の文化財」1982/2/15 より

柏崎勝長

謡曲 『柏崎』 梗概
 

季節は秋、所は前半が越後の国柏崎、後半が信濃の国善光寺

 

小太郎は主君柏崎殿に随行して、訴訟の事で鎌倉へ逗留していたが、主君柏崎はふとした風邪から遂に空しくなった。
 この急逝を悲しんだ一子(いっし)花若は、何処とも知れず遁世してしまったので、小太郎は主君の形見の品々と、花若の玉章とを持って、遥々(はるばる)故郷越後の国柏崎の里に帰ったのである。

 柏崎では独り淋しく留守居している奥方が、都の空を懐かしみつつ、只管(ひたすら)に主の帰国を待ち侘びて居る。
 そこへ小太郎が帰って来たというので、大いに喜んで之を迎へ入れるが、仔細を語る小太郎の言葉を聞いているうちに、次第に胸がふさがり、涙に暮れて行くのであった。
 遣わした文をよむにつけ、形見の品をみるにつけ、奥方の悲しみはいやまさりて、遂に狂はしくなって、何処ともなく迷い出でたのである。

 爰(ここ)に信濃の国善光寺の住僧は、幼き弟子を連れて毎日如来堂へ参詣していると、ある日一人の狂女が来てお堂の内へ入ろうとするので、之を拒もうとすると却って仏説を述べて僧を驚かし、夫の遺品を寄進するといって、烏帽子直垂を取り出し、猶(なお)夫の在りし昔を偲びて舞をまい、果ては我が子の行方を案じつつ、願いを叶へてたべと、御堂に手を合わせて夜念仏を唱えるのであった。
 幼き法弟がこの厭わしい狂女をみていると、正しく自分の母親の哀れな姿なので、ここに花若と名乗りかけ、互いに再会を喜び合うのである。


以上 宝生流謡本1973/11/15発行より

日付 2002/9/4 UP    作成:柏崎市立図書館内 NET・陽だまり 
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