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蝋型斑紫銅


大久保鋳物


大久保鋳物作品
 鋳物は、砂鉄などの金属を溶かし、鋳型に 流しこんで作られた器物等のことで、それら を作る技術は、鋳物師によって、現在も全国 各地で工芸技術として継承されています。

大久保鋳物発祥の地
 柏崎の鋳物技術は、暦応年代(1338 〜1341年)に河内国丹南狭山郷日置庄 (現在の大阪)から戦乱を逃れた鋳物師一 族が、鯨波地内の川内地区に定住したのが 始まりといわれています。河内地区の周辺 には、鋳物作りに必要な砂鉄、薪炭等が豊 富にあるところから、この地域での鋳物産 業が発達したといわれています。

大久保鋳物発祥の地
鋳物師たちは、やがて地区民に砂鉄の採取 方法や精練技法を教えることになり、更に日 常生活に不可欠な鍋や釜の炊飯用具や仏具の 鋳造方法も教え、地区ぐるみの鋳物師集落が 形成されました。  約百三十年後の応仁年代(1467〜14 68)になると鋳物作りに不可欠な山砂と粘 土を求め、また、柏崎港に近く商取引上の地 理的便利さを考慮して、鋳物師達は大窪村 (現在の大久保)に移住しますが、鋳物技術 の基礎を作った川内地区は、それまでの経緯 から「大久保鋳物発祥の地」といわれていま す。

大久保鋳物師免許
「大久保鋳物」は、大窪村に移住してきた 鋳物師達が、住民に鋳物技術を教えたことか ら、より大きな鋳物集落が形成され、全盛期 には八十人もの鋳物師を数えたといわれてい ます。また、鋳物師達は、上杉家(政景) から鋳物師免許を受け、諸役を免除され、格 式と保護を受けて、鋳物産業の発展に寄与し ました。

大久保鋳物展示店
その後、鋳物生産は、塩釜の需要の激減、 鍋釜や梵鐘の需要も飽和点に達したことから 衰退の一途を辿りましたが、明治維新後、 原琢斎、原得斎の兄弟が出現し、蝋型鋳物と いう新分野を導入し、その「蝋型斑紫銅」の 技術は、産業衰退の歯止めとなり、現在でも 技術の主流となっています。

大久保鋳物の作品
 蝋型斑紫銅の技術は、新潟県の無形文化財 の工芸技術の指定を受けるまでに高められ、 現在、日展評議員や審査員クラスの工芸美術 家を頂点に、多くの作家が輩出し、蝋型鋳造 を主体とした惣型鋳造、割込型鋳造、生型鋳 造などの大久保鋳物の伝統技法と素材を自由 奔放に組み合わせた鋳金芸術作品は高く評価 されています。
 「大久保鋳物・原工房訪問」

 鵜川橋を渡り、5分ほどで大久保の丘の中腹にある淡島大門バス停に到着します。更に 町並を左折し下ると「大久保鋳物発祥の地・原琢斉、得斉生地跡」前に到着します。すぐ そばに生垣に囲まれた「原工房」が在ります。ご主人の原直樹さんに伺うと、現在、大久 保周辺には鋳物製造を専業とする家は数軒に過ぎず、技術者はほとんど世襲で、年少の頃 から見聞きしており、経験豊富な方が多いといわれています。

 この作業は、個人的手工業を旨としており、大量生産は馴じまないことからオーダーメ ード、近隣への営業が主となっています。

 使用する地金は、金属混合比を指定したインゴットを購入するか、古い鍋釜、銅線等を 用いることもあります。(工程は省略)

 粘土は地元のものを主とし、粘性の強いものは外部から購入し、炭は市内の谷根(2軒 の炭焼きが営業している)から仕入れています。

 焼き釜は、重油バーナーによる800度の加熱が可能なものを使用し、効率的になって います。現在の作成されているものは、日常の生活用品は少なく、美術工芸品、装飾品の 類いが主流となっています。大久保鋳物は、格式を保ちながら650年の歴史を持ち、こ れまで原、歌代、小熊の三家が競って技術の向上を図ってきましたが、現在では原一族だ けが事業を続け、伝統工芸を後世に伝える努力をしています。


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