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柏崎の経済文化の基礎を作った

越後縮布の行商

 

 柏崎は、北陸街道の宿駅として、また、千石船による 海運の街として繁栄してきました。その中で行なわれた『越後縮布の行商』は、江戸時代に新田開発、海運とともに隆盛を見せ、経済、文化の両面で現在の柏崎の礎を築き、その長い歴史は、柏崎市史の過半に該当する生活史でもありました。 当時の縮布行商は、近隣農村の2000人を超える大行商団が江戸、京都、大阪はもとより、遠く北海道、九州まで売り歩いたといわれています。 

 縮布行商人が最も活躍したのは、天明年間から文化・文政の時代といわれています。縮布商人の商魂の逞しさは、商売上手といわれる近江商人をも圧倒し、公家、武士、豪商などの上流階級を相手に高級織物
である「越後上布」を中心に商売を営んだといわれています。 江戸末期の柏崎は、北陸随一の富裕な町として繁盛したのも、この商魂の逞しさと高度な文化に接触したことがその源になっているといわれています。

 越後縮布は、十日町、小千谷、六日町などを中心とする魚沼三郡、東頚城郡、刈羽郡の高柳、小国郷などの山間豪雪地で生産されていました。
 この地域では、米の収穫が少ないため、農家の副業として『縮布織』が発達したといわれ、農民の生活の知恵と藩の殖産奨励政策が結合した産物といわれています。

 越後縮布の生産は、最盛期であった天明年間(1781年〜1788年)の20万反を境に漸減し、文化・文政の頃(1804年〜1829年)には、15万反、安政2年(1855年)には6万7千反余りとなり、明治32年(1899年)には僅か1万8千反と激減しました。これは幕末、明治に入ってからの消費者の需要の変化によって、絹織物や木綿類が進出したことによるものと考えられています。しかしながら、凡そ300年にわたる柏崎の経済を支えてきた功績は大なるものがあるといわれています。

 縮布商人は、江戸で将軍家や諸大名の江戸屋敷に出入りする間に、当時の常人では知ることのできない世界を見聞し、高度な教養と知識を身に付け、優雅さと気品に満ちた『都の文化を柏崎に移植』しました。
 しかしながら、こうした縮布がもたらした調度品の数々等、縮布資産は、明治の4回の大火で焼失し、貴重な遺産を失いました。


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