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堀 直之と馬匹改良

椎谷の馬市


馬市の様子
「椎谷の馬市」は、元和二年(1616年) に椎谷領の初代藩主堀直之が、馬匹改良を奨 励したことから始まりました。直之は、農民 に種馬を貸し与え、子馬が生まれると奉行所 に届けさせ、その馬には 「馬の子鈴」を与 え、首に下げさせて、労働使役として酷使し ないよう禁制を設けて保護しました。  毎年7月1日には、領主が種馬、子馬を閲 覧して、駄馬を見つけると例の子鈴を取り外 し、駿馬を見つけると買い取っていました。 この日は、一般にも馬の売買が許可され、こ れが次第に盛んになって、「馬市」と呼ばれ るまでに発展しました。


馬市管理記録
馬市は、椎谷の年中行事として、6月24日から7月2日までの間に行なわれ、前半は 牡馬が売買され、後半は牝馬が売買される取り決めになっていました。
 28日の正午には 「駒の綱払い」 という儀式によって、牡馬、牝馬の市の交替が告げられます。
 椎谷では、代々の藩主が馬匹改良奨励の祖 志を受け継いだことで、藩の支援もあり、日 本三大馬市(椎谷のほか、安芸の広島、奥州 の白河)に数えられるほどに繁栄し、賑わい を見せていました。


椎谷の町並み 
椎谷藩主堀直之は、豊臣秀吉に仕え、自身 の目で治乱興亡を見て、その間、幾度となく 戦場に臨んだ典型的な武将でした。
 武勇の誉れ高い実践型の勇将であったとい われ、当時何より優れた武具として、馬を愛 したのは当然のことで、着任早々、馬匹の改 良を奨励し、保護するとともに「椎谷の馬市 誕生」の基礎を作った人物です。


馬市の博労たちが泊った宿
馬市場の立った場所は、寛永年間の記録に よれば、水戸川から観音堂の上り口までの広 がりを持ち、その中に賭博の開帳所、馬市場 などがありました。
また、馬市に集まる売方の博労は、遠く青 森、秋田方面から、県内では蒲原方面から徒 党を組んで訪ずれ、最盛期には2千人を数え るほどでした。
 一方、買方の博労は、関東、北陸、近畿、 東海方面から、県内では頚城方面から1万人 近くが集まり、十数軒の 宿屋では 収容でき ず、臨時の宿屋を含めて狭い椎谷部落の七割 が宿屋となり、その賑わい、混乱が記録にも 残されています。


現在の椎谷(馬市の跡)
 椎谷の馬市は、その後、社会的な環境の変 化などによって、馬の需要も徐々に縮小し、 交通の不便さや海辺にある馬小屋が波浪に浸 食されるなど、次第に廃れ、昭和初期には馬 が300頭ほどしか集まらず、 昭和十八年 (1943年)には幕を閉じました。
 現在では、旧宿元の典型的な家屋が僅かに 残るのみで、昔の面影は消えつつあります。 馬市は、その後、「椎谷市」として7月1 日に僅かな露店が店を開き、近在の人々が集 まるのみの催しとなっています。


椎谷観音堂
 椎谷には、昔から人々の信仰が厚い「椎谷観音」があります。この観音さまは『しいやの観音さん』として広く親しまれ、子授け、所願成就、馬の安全や海上安全を祈願する絵馬や船絵馬がたくさん奉納されています。昔は馬市のため各地より集散する多くの博労からも信心されていました。現在では馬市の面影を見いだすことは困難ですが、山門前の「草臥て宿かるころや藤の花」にあるように、静かなたたずまいが観音堂を取り囲んで、訪れる人々に安らぎを与えています。

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