かしわざきのひと


品田  しなだ 定平さだへい

品田 定平  昭和2年北条村岩の入に生まれる。旧国鉄職員として働くかたわら、新潟県文化財保護指導員、柏崎市文化財調査審議会委員として活躍した。
 新潟県民俗学会の小林存に師事し、機関誌「高志路」にたびたび投稿している。また、民具の保存にも意を尽くし、地元の製作者にわら製民具の新品を作ってもらい図書館に寄贈した。現在では制作不可能な物も多いだけにその功績は大きい。
 塚の調査にも余念がなく長鳥川流域を中心に踏査し、結果県下でも塚の密集地として知られるにいたった。昭和59年4月急逝。享年56歳。『朝に一つ(一合)、昼に二つ、夜に三つ』こよなく酒を愛し、腰に手ぬぐい姿の似合う人であった。
(文:図書館 笠井吉正)

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長谷川  はせがわ 天渓てんけい

長谷川 天渓  広辞苑に次のように載っている。「はせがわてんけい−評論家。新潟県生まれ。雑誌『太陽』を編集、文芸時評に筆を振るい、特に自然主義文学理論を説いた。著『自然主義』『文芸思潮論』。(1876−1940)」
 本名は誠也である。氏は明治9年、椎谷藩士長谷川周虎の長男として生まれた。5歳の時、父が国立第百三十九銀行柏崎支店の初代支配人となった事から柏崎に移住。明治15年、柏崎校(柏崎小学校)に入学。同校の卒業人名録にその名が記されている。後に、東京専門学校(早稲田大学)で学び、坪内逍遙の推薦により博文館にはいり、雑誌「太陽」で筆を振るうに至るのである。
 「椎谷城址碑」裏面に、椎谷藩士長谷川誠也と刻まれている。
(文:図書館 関矢隆)

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加藤  かとう 与市よいちの母

生田萬27忌供養塔  ゛加藤のばばさん″と親われた加藤与市の母は、石曽根(南鯖石)の石塚家の娘で、本名、生年は不明。天保のころ、閻魔町にある柏崎屈指の資産家である加藤家に嫁いだ。
 地蔵信仰の厚い彼女は、柏崎地方をくまなく托鉢し、浄財を貧しい人々に与え、街道の要所には石の道標を立てたりした。また、天保の飢きんの餓死者を弔った「線ぼり地蔵」と、窮民を救うため陣屋に斬り込み果てた生田萬のために、石地蔵をたてた。のち、彼女の遺言により「生田萬埋骨塔」がたてられた。
 夫の死後は、尼僧姿で鐘鼓をたたき托鉢したことから「鐘たたき婆さん」とも愛称され、最後まで慈悲心を忘れず、貧しき人々にささげた生涯であった。文久2年、85歳で没。
左の写真は生田萬27忌供養塔
(文:図書館 遠藤久美子)

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五十嵐  いがらし ぎゅうてつ

 俳人。明治15年北条村長鳥の山本に生まれる。本名は午三郎。北条村収入役・助役・村長を歴任。
 若くして俳句に興味を持ち、日露戦役従軍中の愛馬の死、自身の負傷などを契機に本格的な作句を始める。
 二度の上京遊学を通じて、高浜虚子、与謝野晶子、河東碧梧桐などと交遊、「ホトトギス」「日本」「新生」「明星」などに数多く投句・投詠している。信交のあった大須賀乙字の「石楠(しゃくなげ)」への参加、東本願寺句仏上人に私淑し、「懸葵(かけあおい)」の選者となったことなどを通じて句境をさらに深くする。
 『定めなき山の月日や散る桜』北条十日市の一角に野風会による句碑が建つ。昭和40年1月、82歳で孤高の生涯を終えた。
(文:図書館 笠井吉正)

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三宮  さんぐ 登喜とき

三宮 登喜  明治・大正・昭和を通して、"三宮さん"の愛称で親しまれた柏崎裁縫女学校の2代目校長登喜は、明治21年東京で生まれた。明治39年養母茂子(伯母)とともに同校を創立、昭和10年には校長となった。以来、裁縫教育一筋に生きた。昭和20年国策にそい、閉校の後は私塾となるが、昭和34年までの、通算55年間に2千人余りの教え子を送り出し、柏崎の母と慕われた。この間、私学のため、婦人団体育成等のために活躍し、昭和17年文部大臣表彰、42年市功労者表彰を受けた。明治生まれの気質を貫き、しゃんと背筋をのばした和服姿は凛とした美しさであった。また、長く教え子にも慕われた幸多い人生であった。昭和57年3月、93歳で逝去。
(文:図書館 遠藤久美子)

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内山  うちやま 熊冶くまじ

内田 熊冶  昭和2年、田尻・佐藤池新田の農家内山久治・アキ夫婦の長男として生まれる。熊のように丈夫に育つようにとの願いをこめられた熊治であったが、昭和46年7月、44歳という短い生涯を閉じる。
 著書「はさ木もうたえ−私の営農記録」からは、戦後営農の生活苦や、妹の療養費を工面しなければならない苦闘をうかがうことができる。しかし、農村文化運動を通じて、常に現実を直視し、打開していく意欲と情熱を終生持ち続けた。
 日本農民文学会会員・県連合青年団講師・社会教育委員・市民会館協議会理事・図書館協議会委員・村総代・農協理事・農業評論の寄稿と放送…。内山熊治の生涯は、数々の業績で埋め尽くされている。
(文:図書館 関矢隆)




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