かしわざきのひと


  きた 惣吉そうきち
キタソの人形  人形職人「キタソ」として今日伝承される北惣吉は、嘉永5(1852)年7月、石川県羽咋郡中沼村(高松町)に生まれた。どんな事情で能登から来県したのか定かでないが、明治18年ころに北蒲原郡安田町に招かれ、新式の登り窯を築き、その後南蒲原郡上条村を経由し、同21年に大洲村に転居している。
 いずれの地も安田瓦や陣ヶ峰瓦、大久保瓦の生産地として著名な所であり、その時期も家内工業から地場産業に転換を図ろうとした時に符合するのである。こうして見ると窯業技術者としての彼の姿が鮮明に浮かび上がってくる。県内の瓦業界に及ぼした影響は多大で、特徴ある郷土人形とともに記憶される事柄と言える。61歳の大正3年5月、娘の嫁ぎ先「キタソ瓦店」で没した。
 左の写真はキタソの人形
(文:博物館 三井田忠明さん)

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吉田  よしだ 小五郎こごろう
吉田 小五郎  吉田小五郎は、瓢亭吉田正太郎の弟。明治35年、東本町「花田屋」で生まれる。柏崎中学校から慶応義塾大学文学部史学科に進み、幸田成友の薫陶を受け、キリシタン史を学ぶ。卒業後同校幼稚舎(小学校)の教員になり、舎長10年、再び平教員となり定年を迎える。この間、人間味あふれる師弟の交流は深く、死後「回想の吉田小五郎」が教え子たちにより発刊された。著書には名著「キリシタン大名」を代表に、キリシタンものの翻訳などのほか、「犬・花・人間」「柏崎ものがたり」などの人間愛と英知にみちた随筆集がある。また、趣味豊かな美の追究者で、草木を愛し、民芸に通じ、明治の石版や丹緑本などの収集は日本的である。
 昭和48年、郷里柏崎へ戻り、昭和58年夏、81歳でこの世を去った。
(文:大竹信雄さん)

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  せき 甲子次郎きねじろう
関 甲子次郎  郷土の歴史や民俗を考える際、必ず目を通しておきたい基本文献があります。関の大著『柏崎文庫』です。郷土に関するおびただしい事項を、博覧強記の文献渉猟と豊富な実地調査による知見で解説した「郷土史の戸籍簿」だからです。
 関は元治元年(1864)、国学者であった関守雄の子、虎八の次男として新助町(現在の東本町)に生まれます。小学校中退後、家業の傍ら和学や漢学、温古学を独学、20歳から57歳までの37年間を費やし、毛筆で約5,000ページ全20巻、スクラップブック13輯の『柏崎文庫』を完成させます。まさにライフワークそのものでした。このほかにも『越後の婦人』『刈羽郡案内』『生田の旗風』など郷土史上の名著を数多く残し、大正15年に63歳で死去。菩提寺の妙行寺には、彼の偉業を称える筆塚が残っています。
(文:博物館 渡辺三四一さん)

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山田  やまだ 八十八郎やそはちろう
山田 八十八郎  明治期の柏崎を代表する行政官、漢学者。天保7年(1836)に生まれ、縮布行商を営んでいたが、漢学を志し、原修齋の門に入る。霜と号す。
 明治元年、越後府民政局に出仕し官界に入り、同6年には柏崎比角一帯を治める小六区戸長となる。その後、初代刈羽郡長、南蒲原郡長、北魚沼郡長の要職を歴任、行政官として手腕を発揮し、地方行政の基盤を育成した。退官後は私塾を開き子弟の教育に専念すると同時に、詩文や史学の研究に情熱を注ぎ、当時散逸しつつある古文書や郷土資料を物色集成した。その成果は『刈羽郡旧蹟志』『北魚沼郡志』などの刊行物として今に残る。
 80歳の大正4年、法花堂下町で没し、その墓所は極楽寺にある。
(文:博物館 三井田忠明さん)

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中村  なかむら 葉月ようげつ
中村 葉月  本名毎太。明治24年3月生まれ。柏崎中学校卒業。大正5年、江原小弥太の後を引き継ぎ「越後タイムス」を編集、その後主幹となる。戦後は柏崎日報主幹も兼ね、昭和30年12月、横浜へ移るまでの40年間、おだやかなうちに芯のあるジャーナリストとして、柏崎に新しい風を吹き込んだ。
 天性のすぐれた才能は、文学、詩歌と多くの作品を生み、「葉月草紙」をはじめ、市内の小中学校の校歌や、アクアパーク裏の「米山甚句の碑」に刻まれている「番神みさきのあかりもうすれ」の歌詞などがある。
 また、こよなく郷土を愛し、その情熱は、タイムス紙上に発表した綾子舞についての卓見や、西巻進四郎との共著「柏崎」などに見られる。
 昭和43年1月12日逝去。77歳。
(文:大竹信雄)

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渡部  わたなべ 勝之助かつのすけ  
柏崎日記  幕末の桑名藩士で、後半生を飛び地領の柏崎陣屋役人として過ごす。38歳の天保10年に柏崎詰めとなり、以来国元の養父・平太夫との間で10年間、それぞれの家族の消息を伝える交換日記を継続。これが『桑名日記・柏崎日記』(三重県文化財)。400字原稿用紙で平太夫の『桑名日記』が2,700枚、勝之助の『柏崎日記』が2,664枚という大著である。『柏崎日記』では妻子の近況報告を主軸にしつつ、桑名とは気候も文化も異なる柏崎の異国ぶりも重要な話題となった。陣屋の様子、役人長屋での交際や衣食住、町周辺の寺社や祭礼行事、米山登拝や乳授け祈願の胞姫参りなどの遊山見聞も詳述され、幕末の柏崎を鮮明によみがえらせる。
 終生桑名への帰郷を望んだ彼だが、元治元年63歳で柏崎に没す。今も極楽寺の墓所から、様変わりした柏崎を見ている。
 左の写真は「柏崎日記」
(文:博物館 渡辺三四一さん)




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