かしわざきのひと |
■田中 泰治
明治31年、市内加納笠原家に生まれ、造園業を営む兄の手伝いから造園の道に入る。修行のために京都に出、請われて田中家を継ぐ。京都一との名声高い植治(小川治兵衛)のもとで技術を磨く一方、芸道にも自己研鑽を積み、華道・茶道・書道・香道・俳句・謡曲などに通じた。銀閣寺の茶会に招かれた時、埋没した洗月泉滝石組に気づいた泰阿弥が、その発掘・修復を行ったのは昭和4年のことである。以後独立し、銀閣寺専属となり、その庭園の修復にあたる。
京都天竜寺、東京三井総本家、鎌倉瑞泉寺、県内では北方文化博物館、関川村渡辺邸、新発田市清水園、高柳町貞観園、市内与板豊耀園などの庭園に師の業跡を見ることができる。昭和53年3月逝去。享年80歳。(文:図書館 笠井吉正)
■与口 虎三郎
慶応2年(1866)、旧橋場村に生まれる。明治43年(1910)、「刈羽節成胡瓜採種組合」設立の初代組合長である。橋場地区は古くから胡瓜の生産地だったが、その胡瓜の種を改良し、刈羽節成の名で全国に売り出したのが同組合。息子の重治は、栽培法、種子選別法など指導にあたった。わずか30余名での組合設立ではあったが、「節ごとに実をつけ、病害虫に強く、寒地にむく」という特性が喜ばれ、全国から、また遠く樺太、満州からも注文が殺到したという。年々組合員も増え、上原、下原にもおよび、200名を超えた。
第二代組合長には重治が就任し、第七代(解散)まで続いた。
大正14年(1925)没。橋場の大国玉神社に与口父子の彰功碑が建っている。(文:図書館 遠藤久美子)
■酒井 薫風
両田尻の歌人、教育者。本名良弼 。明治21年8月生まれ。
旧制柏崎中学のとき柏崎日報に投稿した「若やぎの血潮もこもる春風に二人の歌は恋となりぬる」が激賞され、生涯歌を詠み続けるきっかけとなったという。高田師範学校時代は与謝野鉄幹、晶子に心酔。卒業後大洲小学校に奉職するとともに柏崎歌会に入会し、松田青針、江原小弥太、中村葉月らと同人歌集「潮鳴」を刊行。教職退職後赤坂山新潟療養所で講師を務め「松籟」を発刊。また、「朱」の刊行に尽力するなど柏崎の歌壇振興に大きな足跡を残した。著書「田尻のはなし」は村誌として貴重。昭和50年1月15日逝去。88歳。
赤坂山に母を想う「ははそはの…」歌碑が建てられている。(文:図書館 関矢隆)
■曽田 範宗
国内の潤滑学の草分け的存在。工学博士。明治44年4月、学校町生まれ。
航空原動機の軸受けから始まった研究活動は半世紀を超え、製鉄、自動車、鉄道輸送などの産業に技術革新をもたらした。
東京大学名誉教授、同大学宇宙航空研究所長、日本潤滑学会会長、日本機械学会会長、理化学研究所顧問などを歴任。日本人として初の英国機械学会トライポロジー金メダル受賞、文化功労者表彰、4度の国内学会賞など、功績は国内外で高い評価を受けた。平成7年6月、84歳で逝去。
岩波新書に著作「摩擦の話」があるが、平易にして達意な文章は名著とされ、後進の入門書として重用されている。また、200編に及ぶ論文は「曽田範宗博士論文集(上・下)」として平成8年刊行された。(文:図書館 笠井吉正)
■平田 光楽
明治27年上田尻に生まれる。本名誠二郎。蒔絵、漆器研究家として知られる。
呉服店を営むかたわら、漆、越後縮布の資料収集、保存に力を注いだ。漆器関係だけでも膨大で、蒔絵・根来・堆朱・漆絵等、文房具、化粧道具、飲食器、調度品、嗜好品数百点におよぶ。どれをとっても、翁の目にかなった逸品で、柏崎コレクション最後の人と言われるのもうなずける。漆工芸作家としても日展に再三入選し、考証、鑑識眼は確かなものであった。20数年間、市文化財調査審議会委員を努め、昭和54年、市教育文化功労者表彰を受けた。
漆工芸家、内田宗寛(昭和59年100歳で没)は実兄。
昭和58年1月24日逝去。90歳。(文:図書館 遠藤久美子)
■村山 徑
日本画家。大正6年1月21日、北条荒町に生まれる。本名は勲。
若い時、尾竹国観(新潟市生まれ)に手ほどきを受ける。昭和10年上京し川端画学校日本画科、そして太平洋画学校に学ぶ。昭和18年文展に『子等』が初入選(この時号は三魁)。昭和25年ころ児玉希望に師事する。以後日展連続特選、審査員、会員、評議員を務め、昭和53年日展で『朝の火山』が内閣総理大臣賞、昭和59年の日展作『冠』が日本芸術院賞恩賜賞を受賞、日展理事となる。
昭和61年7月、市立博物館で「郷土ゆかりの巨匠展」として、國領經郎画伯と共に傑作が展覧された。村山画伯はこのときすでに療養中で、柏崎を訪れることなく、翌年1月23日死去。70歳。夫人さだ氏から博物館に『聖牛』が贈られた。(文:図書館 関矢隆)