A柏崎小学校西側の群碑

「群碑」は三分類できる。A:義民生田万 B:戊辰戦争戦病死者の墓 C:日清日露戦争招魂碑で、ABを解説する


■義民・生田万(1801〜1837)
館林藩士生田万は、尊王敬神を待望し藩政を批判、浪人となる。国学者・平田篤胤家の塾長となるが、家族と共に篤胤家を離れる。柏崎の神官樋口英哲は和学振興のため、万の家族を招く。当時、天保飢饉で米価高騰の元は陣屋役人の怠慢だと同士と共に同8年6月1日、陣屋切り込み、自害する。米価は徐々に下がった。



■(表)
南無阿弥陀仏

■(裏)
「天保飢饉のため窮民数百人病死者三十人許」と記す



■戊辰戦争戦病死者の墓
戊辰戦争(1868〜1869)において、越後・東北各地の幕府軍を追討した新政府軍は各地で戦死した。その中の50人位がこの砂山に眠る。碑には山口・岩国、芸州・高地などの各藩士・御親兵十津川隊の○○の名を刻む。20歳代の人が多い。


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