中山峠 |
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鵜川沿いの道を南下し、中山峠を越えると前面に鵜川の盆地が開けてくる。中山峠は、大字女谷(旧女谷村)と野田(旧野田村)を結び、鵜川の里の人々が柏崎方面に向かう際に必ず通った道とされる。ここを越えて柏崎に年貢米や炭が運ばれたという。鵜川地区から他郷に通じる峠は多数あるが、里の行政と経済の動脈として、最も利用されていたのはこの中山峠であった。 また、鵜川地区の北端に位置するこの峠は、いわば鵜川の玄関口であり、「見送り峠」「出迎え峠」とも呼ばれたとされる。(「史談うかわ」)戦時中は、出兵する人々を万歳で見送り、帰還してきた人々を迎える場所であった。 中山峠と呼ばれる道筋は、幾たびもの改修により、その姿を変えてきた。古くからの峠道は、明治32年に道幅3,4mの県道となり、昭和50年に自動車通行を前提にした国道353号線に昇格した。最も古い峠道は現在ほとんどが消滅しており、道筋を確認することは難しい。しかし、旧県道部分はいくつかの場所で昔のままの姿を残している。 かつて野田と女谷は、村の境界を巡って長く争っていた。和解が成立し、境界線が定められたとき、今後いさかいが起きぬことを願って野田の人々が建立したのが延命地蔵尊である。この地蔵尊の功徳か、その後数百年この境界線は守られ、争いが起こることはなかったという。いまでもこの地蔵尊は旧県道脇にたたずんでいる。 |
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