米山峠 |
米山三里(亀生橋) 小竹コレクション絵ハガキから | ||||||||||||||||||||||||
米山峠は源義経草分けの道と伝えられている。そのため、弁慶が杖をついて湧出させたという「弁慶の産清水」、北の方が亀若丸を出産したと言われる「亀割坂」、亀若丸の胞衣を納め女人の守り神として胞姫大明神を祀ったとされる「胞姫神社」等、義経ゆかりの史跡が多く存在する。 米山町集落の背後の旗持山(通称)に旗持城跡が残る。戦国時代、ここは米山峠を掌握する戦略的拠点であった。天正六年(1578)上杉謙信が49才でこの世を去ると、謙信の養子景勝と景虎が家督相続をめぐって争った。これが「御舘の乱」である。景勝側は旗持城を居城に米山三里の守備を固め、景虎側の本拠地御舘城への連絡補給路を断った。御舘城は孤立化し、結果、景勝側はこの戦いに勝利した。 近世に入ると米山峠は北国街道の一部として利用された。北国街道とは、近世五街道のひとつ中山道から分岐し、野尻峠を越えて越後国に入り、高田城下を経由して佐渡渡海場である出雲崎宿までをいう。(「新潟県歴史の道調査報告書」)江戸幕府は佐渡の金銀を江戸に輸送するためのこの街道を重要視していた。 米山峠の頚部にあたる米山町(旧頸城郡米山村鉢崎)には鉢崎関所、そして鉢崎宿が設けられた。ここは出雲崎に荷揚げされた御金荷が輸送1日目に泊まる地であり、金を泊めるための御金蔵も置かれていた。 昭和34年、柏崎から柿崎町にまたがる地域が「米山福浦八景県立自然公園」に指定され、昭和56年、福浦八景の一部分と米山の山頂部が「佐渡弥彦米山国定公園」に指定変更された。天険の峠道として名を馳せた米山峠は、北陸自動車道、国道8号線というアクセスルートに恵まれた観光名所となった。 |
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