私の8月15日
進駐軍のことなど
阿 部 悦 子

 あの当時は、戦争に負けたら日本人はみんな殺される、と聞かされ ていました。いま聞くとまさかと思うでしょうが、ずーっと時間を かけて洗脳されていました。

 8月15日のあとで柏崎にも進駐軍がきたのです。その日は、「外 にでるな。女は隠れているように。」と言われたのです。そのあた りは分かるのですが、進駐軍が柏崎についた時のこと、その後に市 内を歩いている姿は記憶がないのです。この原稿を書くに当たって 困りましたから、とりあえず3人の知人にたずねました。たぶん分 かると思うから東京へ行った叔母にも電話しました。が、そろいも 揃ってなにも覚えていないと言うのです。進駐軍はダンスをしな かったかしら?それもぜんぜん分からないといいます。

 ようやく目撃した人に出会いました。一人は「理研の事務所で残務 整理をしていたら、進駐軍がきた。青年学校は大きいからそこには いった。危ないから早くといわれて急いで帰った。」
 次にもう一人、私の妹も当時小2でしたが、「ジープやほろ付きの 車を連ねた進駐軍を見た。ものすごく長い列で通り過ぎるのに時間 がかかった。戦闘帽の人もいたし、カッコいいすてきな帽子の人も いた、ジープを止め、おいでおいでをして、ガムやお菓子を呉れよ うとした。でも先生にぜったいダメと言われていたから貰わなかっ た。3回ぐらい見た。はじめは怖かったがだんだんにそうでもない と感じ近くまでも見に行った。」と聞かせてくれました。もうすこ しきちんと書いたものが残っていないかと探してみました。

{柏崎編年史}
 20年9月20日 アメリカ第8軍27師団司令部を新潟におく。 24日 約5000人、新潟、三条、新発田、村上に進駐。25日 柏 崎、高田に進駐。
柏崎は9月18日に3人、24日に7人で進駐準備、9月27日G 大尉以下、640人進駐、宿舎は理研工場。


とあります。
 私の家は理研正門の近くでしたから、これで知人や妹の言葉の裏付 けが出来ました。
 いつまで駐留したかそれは書いてなかったので分かりません。それ にしても640人だったのですか。私を含めて、街中(まちなか) に住んでいた数人が覚えていないのはおかしいです。56年の昔は 忘却の彼方でしょうか。情けない。

 進駐の日のことは記憶にないが、他にいくつか覚えていることがあ ります。私は終戦後になってから再就職して、山の方の学校につと めていました。ある日地図や歴史の年表を焼きました。進駐軍が見 に来ると言うのです。たたみ2畳ほどある大きい地図を惜しげもな くジャンジャン燃やしました。もう地理の時間にぶらさげることも 無かったのでしょう。すこし貰って置けばよかったかな。怖くてと てもそんなことを言える雰囲気じゃあなかったのです。どんな立場 にいた人が戦犯になるのか分からなかったからです。進駐軍は山の 学校には来ませんでした。

 20.12.31 GHQ(連合軍総司令部) 修身、日本歴史、地 理の授業停止を指令。

 休みに帰省した私は友人を訪ねました。部屋の戸をあけると、家族 もアメリカ兵もこたつに入って、お茶など飲んでいたのです。まあ 驚いて、話もせず、お茶も頂かないまま帰ったから、アメリカ兵が 日系の顔であったか、それとも大男だったかすらも覚えていませ ん。
 兵のためのダンスホールはなくても、遊ぶ場所はあったようです。 街を歩いたり、又は自転車に楽しそうに乗っているアメリカ兵を見 た人は多勢いたそうです。

 いろいろ知りたがる私に、当時の新聞を見るといいと言ってくだ さった人が、「ああ新聞は無かったね」と笑いました。柏崎の新聞 のことでしょうか?

 21.3.15 柏崎新聞、復刊
 24.6.13 広小路にサカエヤホール舞踏教習所が開設


 28年の写真をみると、息子達を抱いている主人は進駐軍の服の上 下を着ています。古着屋さんから買いま した。生地がよくて、着やすくスマートで、周りを見ても着ている 人は結構いました。

 理研の話をいたします。終戦まで私の父、妹、弟は理研で働いてい ました。徴用工と学徒動員です。

 20.8.10 柏崎理研の従業員は9550人、その内、動員学 徒1650人、徴用工員1300人

 進駐軍がいなくなってから父はまた理研に勤めました。弟は柿崎の 理研でしたが、15日が終戦で、17日には柏崎中学校(いまの柏 崎高校)へ登校しています。

 さて私はと言えば20歳でした。一体どうなるのだろうと不安のか たまりだったのに、一転して自由、(と表裏のような責任。)平 等、民主主義が一度に私に押し寄せたから、まわり中が新鮮で何に でも興味しんしんでした。

 村役場でリーダー的存在のMさんが赤旗を読んでいると聞いて、お そるおそるお願いしてみたところすぐに新聞はきたのです。少し前 だったら思想犯?とか言われて検挙ものでした。でも、私を咎める 人は誰一人いなかったのです。ああ自由なんだ、風景まで違って見 えました。自分の考えで行動しました。一生懸命本を読んで自分の 意見も述べられるようになりました。巻町へ訓練に行ったときも 「ここの道場は旧態依然です。戦時下のような手段方法は改めてく ださい。」と言ったものです。

 でも、先生の立場となれば複雑ですね。「昨日まで教えたことはみ んな間違っていました。日本は変わったのです。今日からは民主主 義の勉強をしましょう。」なんて事がうまく言えたかどうか。お面 をかぶってしらばくれているような切なさがありました。結婚のた めに退職がきまったときはほっと致しました。

                  
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