良寛さんはその人柄や知名度も上がって、 近郷近在の豪農、豪商は先を競って 良寛さんの外護者となりました。 そういう家には立派な書物もあり, 文芸に深い理解をしめしてくれました。 良寛さんは遍澄和尚の将来のことも考えて 彼を紹介したりしながら、交際を続けていました。 原田家(国上村字中島)もそのうちの一つでした。 ある時のこと、 良寛さんと交わりの深かった 鵲斎(じゃくさい)こと原田有則(ありのり)家の庭先の花が あまりにも美しかったので, 一枝こっそり切り取って帰ろうとしました、 その時の有名な「花盗人(はなぬすと)」と 関係ある家が鵲斎の家でした。
ある時のこと、 良寛さんと交わりの深かった 鵲斎(じゃくさい)こと原田有則(ありのり)家の庭先の花が あまりにも美しかったので, 一枝こっそり切り取って帰ろうとしました、 その時の有名な「花盗人(はなぬすと)」と 関係ある家が鵲斎の家でした。
良寛が今朝のあさはな(白牡丹) もてにぐる御姿 後の世にまで残るらん (良寛 鹿児島徳治 考古堂)