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平成19年(2007年) 7月16日 午前10時13分22.5秒 マグニチュード(M)6.8 の地震が発生。
震源は椎谷岬の北の海底深さ17Km。最大震度6強。 マグニチュード(M)4以上の震源Google Maps
7月31日の柏崎市の情報によるとこの地震による死者11名、重軽傷者1,339名と地震の規模にしては少なかった。
地質上砂丘の上にある柏崎市の中心部の被害が大きく、多くの住宅・神社仏閣などの建物が倒壊し、家屋の全壊884棟、大規模半壊433棟、半壊2,352棟、一部破損23,647と少なからずあった。(広報かしわざき9月20日号)
7月16日(月)は「海の日」で休日だった。これがウイークデイだったら、それぞれの工場や事業所では、従業員が倒壊した建物、機械類、 棚などに押しつぶされたり、下敷きになったり、火災が起きたりと人的災害、二次災害が 大きかったと思う。もし夜間就寝後であったら人的被害はもっと大きなものになったであろう。
地震の起きたのが冬でもなく梅雨時でもない休日の午前10時過ぎであったことがせめてもの幸運だった。
余震は3年前の新潟県中越地震から較べると規模は小さかったが、今回は地震に強いとされていた東京電力柏崎刈羽原子力発電所で火災発生、微量の放射性物質が外部に放出されるなど多数のトラブルが発生し 「原発安全」 の神話は危なくなった。
行政防災無線が非常に有効で地震発生直後から刻々と情報を発信してくれた。自衛隊の方々が大挙して応援に駆けつけてくれ「災害救援」と書かれた白い標識をつけたトラックを街中で見かけ、どんなに心強かったことか! ライフライン復旧の為にガス、水道その他の工事関係者が全国から応援に来て、昼夜分かたず工事に励んでくれた事に対して心からの感謝を申し上げます。
全壊も半壊も非常に多い。外観はよくても中が傷んで、住むに耐えない家もまた多い。当然倒壊した家の中には人がいたが、殆んど救出してもらった。
これは休日で若者の手が多かったこと、それに火事がなかったのが幸いした。
柏崎市街地は明治13年より44年迄の間に4回の大火があり土蔵が造られた。火に強い土蔵が地震にはもろく多数崩壊した。
神社、仏閣の倒壊が目立った。郷土の名所旧跡や信仰の場所の損傷を目にすると胸を締め付けられる。まわりの建造物も、もろもろ崩れた。守り継がれた貴重な遺産、子供の頃の思い出の場所などが失われてしまった。
いずれも屋根の瓦と土壁が痛々しく目に映った。
どーんと突き上げるような縦揺れの後、まるで大荒れの海原にいるような横揺れ。
恐怖と戦いながらぎしぎしときしむ柱にしがみついた。家は大丈夫だろうかと考える間もなく、ガッシャーン、ドタンと何かが倒れる音がする。
揺れが治まり、回りを見渡すと、食器棚から書棚、箪笥とありとあらゆるものが倒れ、たった数分の内に部屋の中は惨状化してしまった。
柏崎の中心街「えんま通り」 はつい一ヶ月前えんま市で賑わっていた。 駅通リや本町通りは前の日ドンGALA祭りで市内外からの踊り手で元気に盛りあがっていた。
柏崎の懐かしさを宿していた街並みがいたるところで倒壊して風景が一変した。
そして新しく整備された歩道のタイルが盛り上がったりして地震のエネルギーの大きさを見せ付けられた。
地震後不安を抱えた人たちが変わり果てた街並みを見ていた。
地震直後から自衛隊員、消防隊員、警察官などのみなさまが被災者救援に駆けつけてくれた。
電気、水道、ガス、道路等の復旧のため、県内外から応援部隊1,000人の方々が奮闘してくれた。
ボランティアの皆さんには、福祉センターから被災している所に行って献身的に応援していただいた。
天皇、皇后両陛下も8月8日に避難所を訪問されて被災者にお見舞いの言葉を掛けられた。
8月13日に仮設住宅への入居が始まった。
「がんばろう!輝く柏崎」 のスローガンの下、商店街はじめ各戸の皆さんが復興に向かって頑張っている。
女性シンガーソングライターのKOKIAさんが、被災者を励まそうと 「私にできること」 を歌われ復興を誓った。
You Tube のサイトで“私にできること”を聴く
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