かしわざきのひと |
■伊平 タケ
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明治19年刈羽村油田(あぶらでん)にて出生。本名丸山イツ。5歳の春失明。柏崎市藤井、久之木(くぬぎ)のごぜさんに弟子入り。芸名タケ。9歳から門付けを始め、夏は刈羽・魚沼を回り、冬は上州稼ぎ。大正元年赤尾鍼師伊平伝吾(でんご)と結婚。中央町に新居を移し、按摩(あんま)業開店。昭和25年東京転居。昭和42年東松山市へ移る。 |
(文:大竹信雄さん) |
■西川 善之助
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いわゆる大久保焼と呼ばれる、陶器や煉瓦、瓦の生産を始めた人。 |
(文:博物館 三井田忠明さん) |
■三井田 忠
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大正12年、代々縮行商を営む比角の呉服屋に生まれる。10歳のころにはもう、土器の断片や石器採集に熱中する考古学少年となっていた。 |
(文:博物館 渡辺三四一さん) |
■内田 宗寛
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明治16年柏崎市上田尻に生まれる。本名定一郎、柏竹庵と号す■漆家。 明治39年農商務省の漆器練習生の試験に合格し上京。三上博士などから漆の分析や学問的な教えを受け帰郷。明治45年には農商務省から講師に招かれ、全国漆器産地に出張指導にあたる。この間、帝国美術院会員の赤塚自得氏や植松包美氏の作品に漆塗を行うと共に、棗の製作法を学ぶ。また鈴木嘉助氏より■漆技術の伝授を受けた。大正12年より独自の黒棗を制作し研修を重ね、それ以後、茶道具を主体に仕事を続ける。 |
(文:博物館 三井田忠明さん) |
■田村 愛之助
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郷土史研究家田村愛之助氏は、昭和47年8月、85歳で他界、「史学道愛居士」となって、鯨波妙智寺に眠っている。氏は明治20年2月、大沢旧庄屋柳小右衛門の五男に生まれ、長じて鯨波の旧組頭田村家に婿養子となった。 |
(文:大竹信雄さん) |
■五十嵐 与助
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明治11年、中浜に生まれる。9歳から奉公生活を続け、ようやく20歳の時、青果業を東京で開き独立。以来、持ち前の熱意と創意工夫を発揮し、新たな事業に次々と着手。ちなみに輸入直後の青いバナナを甘味な黄色に色付ける方法も、氏の研究開発による。 |
(文:博物館 渡辺三四一さん) |