かしわざきのひと

 

伊平いひら タケ

伊平 タケ

 明治19年刈羽村油田(あぶらでん)にて出生。本名丸山イツ。5歳の春失明。柏崎市藤井、久之木(くぬぎ)のごぜさんに弟子入り。芸名タケ。9歳から門付けを始め、夏は刈羽・魚沼を回り、冬は上州稼ぎ。大正元年赤尾鍼師伊平伝吾(でんご)と結婚。中央町に新居を移し、按摩(あんま)業開店。昭和25年東京転居。昭和42年東松山市へ移る。
 昭和2年東京放送局からデビューしたタケさんは、昭和45年鍛えあげたごぜ唄伝承者として国無形文化財の選定を受け、昭和48年黄綬褒章(おうじゅほうしょう)受章。以後マスコミや公演で精力的に活躍。明朗温和な人柄は若者に受け、機知に富む語りは聴衆を魅了。
 「世の中は目じゃない、心でやすネ」が口癖だったタケさんは、昭和52年92歳で他界。

(文:大竹信雄さん)

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西川さいかわ  善之助ぜんのすけ

西川煉瓦工場

 いわゆる大久保焼と呼ばれる、陶器や煉瓦、瓦の生産を始めた人。
 明治の初期、善之助(ぜんのすけ)(弘化4年〜大正13年)は、陶工を呼び集め小さな瀬戸物工場を作った。当初、山水画や四君子(菊・蘭・梅・竹)などを染付けた日用雑器を作っていた。ところが明治30年ころ、北越鉄道の建設工事に使う煉瓦を受注し、地場産業と言える程の活況を呈した。その様子は「大久保工場毎日戦争の如し」と記録されている。そして好況に乗じて長岡にも分工場を設置した。
 明治43年、良質安価の製品が流入すると、いち早く鉄工所に転換した。短期間の操業だったが大久保窯業が、柏崎の鉄工業界、セメント業界、瓦業界などに果たした役割は大きい。
 左の写真は西川煉瓦工場

(文:博物館 三井田忠明さん)

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三井田みいだ ただし

三井田 忠

 大正12年、代々縮行商を営む比角の呉服屋に生まれる。10歳のころにはもう、土器の断片や石器採集に熱中する考古学少年となっていた。
 高校を出ると、東京の出店(支店)に勤めるが、幸運にも当時新進気鋭の考古学者・山内清男博士の知遇を得、以後応召までの2年間、商売そっちのけで博士宅に日参、学問的指導を受ける。
 戦後帰郷して家業を営む傍ら、剣野遺跡の発掘調査をはじめ、野崎遺跡、軽井川遺跡、さらには柿崎町鍋屋町遺跡など、私財を投じての発掘調査を次々と実施。戦後、本県の考古学の進展に大きく貢献、同時に後進の育成にも尽力した。昭和40年12月、42歳で急逝。その前夜まで遺稿「比角村史誌」を執筆中であった。

 (文:博物館 渡辺三四一さん)

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内田うちだ 宗寛そうかん

内田 宗寛

 明治16年柏崎市上田尻に生まれる。本名定一郎、柏竹庵と号す■漆家。 明治39年農商務省の漆器練習生の試験に合格し上京。三上博士などから漆の分析や学問的な教えを受け帰郷。明治45年には農商務省から講師に招かれ、全国漆器産地に出張指導にあたる。この間、帝国美術院会員の赤塚自得氏や植松包美氏の作品に漆塗を行うと共に、棗の製作法を学ぶ。また鈴木嘉助氏より■漆技術の伝授を受けた。大正12年より独自の黒棗を制作し研修を重ね、それ以後、茶道具を主体に仕事を続ける。
 昭和16年技術保存資格者に認定、同45年優秀膝工技術者として日本膝工協会から表彰を受け、さらに同45年には漆工功労者の表彰も受けた。
 昭和59年百歳でこの世を去る。

(文:博物館 三井田忠明さん)

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田村たむら 愛之助あいのすけ

田村 愛之助

 郷土史研究家田村愛之助氏は、昭和47年8月、85歳で他界、「史学道愛居士」となって、鯨波妙智寺に眠っている。氏は明治20年2月、大沢旧庄屋柳小右衛門の五男に生まれ、長じて鯨波の旧組頭田村家に婿養子となった。
 柏崎郵便局や鯨波村役場、鯨波信用組合などに勤める傍ら、郷土資料の収集と研究に没頭し、ついに家産を傾けるほどになった。特に、晩年に夫人や嗣子を亡くし、失意のどん底にあって生活はより苦しくなった。
 こうした中で情熱的に収集した町会所御用留帳をはじめ2千余点に及ぶ膨大な資料は、昭和42年、柏崎市立図書館に寄贈、「田村文庫」と名付けられ、今は柏崎の歴史や民俗を学ぶ者の必見の資料となっている。

(文:大竹信雄さん)

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五十嵐いがらし 与助よすけ

五十嵐 興助

 明治11年、中浜に生まれる。9歳から奉公生活を続け、ようやく20歳の時、青果業を東京で開き独立。以来、持ち前の熱意と創意工夫を発揮し、新たな事業に次々と着手。ちなみに輸入直後の青いバナナを甘味な黄色に色付ける方法も、氏の研究開発による。
 29歳の折、株式の仲買業を始めたのが縁で、当時北洋漁業の最大手・日本漁業株式会社の株主となり、同社再建に尽力。大正11年には日米水産株式会社を設立、初代社長として自ら考案した「粕漬鱈」を武器に流通を踏まえた事業展開に成功。後に「日本の鱈王」と呼ばれるように、日本水産業史に大きな足跡を残した。
 晩年、柏崎港修築や母校(大州小)の図書館建設など郷里の産業・教育振興に貢献。昭和32年、80歳で永眠。

(文:博物館 渡辺三四一さん)




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