かしわざきのひと


村山  むらやま 貞治ていじ
星天儀  文政13年(1830)年生まれ、大正11年(1922)年没。幕末・明治の算学者。通称は保信、号雪斎、また、いばらめの算者さんと愛称されていた。
 茨目の村山源太夫(5代)と、さんの長男として生まれる。17歳の時、下田尻の黄金屋・植木彦吉(山口坎山門)の算学塾に入門。その才を認められて、小千谷の佐藤雪山道場に入門。免状を得て帰郷。安政6年、柏崎で算法塾を開き、「通機算法」・「垂題捷解」・「日時計方位便法」を著す。後、柏崎県学校教師となる傍ら、曽地峠・米山峠の測量などで活躍する。
 村山家に残る安政6年の塾則に「稽術は上達を専一とす。故に新古貴賎にかかわらず、一歩も進み候を上席とす…」とし、学の自由と平等をうたっている。
 左の写真は図書館所蔵「星天儀」
(文:図書館 関矢隆)

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小竹  おだけ 忠三郎ちゅうざぶろう
小竹 忠三郎   慶応2年9月17日枇杷島村柳橋の縮布問屋の四男として生まれる。明治27年、有志とともに柏崎宝栄株式会社を設立し石油界に入る。以後、大正14年の引退まで石油産業の隆盛の中で要職を歴任。その傍ら、絵はがきの収集と地誌の編さんには並々ならぬ情熱を傾け、30余年かけて集めた絵はがきは10万枚にものぼる。
 前後2回にわたって目録「全国町村別名所絵葉書及名蹟物産総覧」を発行し、絵はがきと併せて「目で見る地誌」の発行を計画するが、続々と発行される絵はがきに増補・改訂が追いつかず完成をみることはできなかった。
 昭和9年の逓信博覧会にその一部を出品し、「絵葉書王」として注目されるが、翌昭和10年4月郷里柏崎で、72年の多彩な生涯を終えた。
(文:図書館 笠井吉正)

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西巻  にしまき 開耶さくや
西巻 開耶  慶応2年(1866)、平井に生まれる。
 柏崎第1号の女性教師として、明治13年、柏崎尋常小学校に採用されました。この時、15歳で教壇に立ったというのですから、現在からは考えられないことです。娘時代は文明開化の影響か、たいそうなハイカラさんで服装も人目を引くほどだったそうです。
 この開耶が歴史に残る罰金事件にかかわったのは、明治15年。自由党議員が来柏し、西福寺で演説会を開いたとき、当時17歳の女性教師が祝辞を朗読したというのが法に触れることになったということです。罰金1円50銭を課せられました。
 このことを契機として、男女同権論や女子教育の必要性を説き、女性による柏崎初の政治活動家第1号にもなったのです。後に和歌山の国学者北畠道竜に嫁ぎました。
(文:図書館 遠藤久美子)

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高野  たかの 米峰べいほう
高野 米峰  幕末明治の文人。名は■之、通称は六太夫、字は中矩、号は米峰、迂斎という。文政4年生まれ、明治42年没。89歳。平井の人。
 高野家は領主安藤氏の代官格で12村を治める豪族だった。19歳のころ江戸に出て昌平黌(徳川幕府の儒学専門学校)で漢学を修めた。42歳のころ四方に旅して文人と交わり、長崎では日高鉄翁に南画を学んだ。勤王の志があったが、四囲の事情でその志をはたすことができず、晩年は社交を断ち、もっぱら書画をたしなみ、漢詩の吟懐に安んじた。
 明治42年、米寿を記念して孫の誠亮が「米峰寿詩」を刊行している。日下部鳴鶴・富岡
鉄斎夫妻等々全国各地の知人からの献歌が載せられているが、女優松井須磨子の献歌もみえる。
(文:図書館 関矢隆)

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桑山  くわやま 太市朗たいちろう
桑山 太市朗  明治24年生まれ、新潟県および柏崎市の文化財調査審議委員、柏崎芸術鑑賞会初代会長、柏崎邦楽連盟会長などを歴任。青年時代に東京で暮らし始めるが、関東大震災に遭い、郷里に戻り画材などの販売店「戯魚堂」を開く。昭和22年には柏崎駅前に郵便局を開設し、34年まで局長を勤めた。
 文人墨客との親交深くまた、歴史・民俗・芸能には造詣深いものがあり、その発掘・紹介・保存につくした。中でも綾子舞を世に紹介した功績は大きく、後に国の重要民俗文化財指定となる。「新潟県民俗芸能誌」など多数の著作を残したが、昭和53年5月急逝、享年88歳。「戯魚堂文庫」と称された貴重な蔵書は、昭和63年図書館に一括寄贈されている。
(文:図書館 笠井吉正)

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猪股  いのまた 雷道らいどう
猪股 雷道  北海道余市の海運業、井上林治の子息で、幼くして宮川第一の財産家猪股定吉・わか子の養子となる。後に分家の猪股万作の娘そよと結婚。若き日の雷道は「ムキ出しの豪傑肌」、「春風に面を吹かれる」思いのする人物であったという。
 明治36年ころ、猪股合名株式会社の社長、蚕糸同業組合の組長を勤めた。また、土地の産業振興のため勧業場を建てたが、功あがらず数年の後、勧業場を閉じ北海道余市へ赴く。在道20余年、再び宮川にもどり、県議、郡議などを勤め、公共事業に尽くす。昭和18年4月20日逝去。享年67歳。
 雷道は、明治38年宮川に設立してあった雷道文庫を柏崎に寄付、翌39年私立柏崎図書館が創設される。現柏崎市立図書館の歴史はこの猪股雷道から始まっている。
(文:図書館 関矢隆)




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