相沢昇一
昭和20年8月15日 私は小学校1年生で特別な記憶はない。
従って、その前後の記憶をたどって書いてみました。
思い違いもあるかも知れないがお赦しを願います。
私は生まれも育ちも柏崎、当時は柏崎小学校に通い、住まいは学校区に最も近
い港町3丁目(現在の東港町)、学校まで徒歩で5〜6分、子供の足でも10分たら
ずの通学距離であった。
田舎町である柏崎では東京などの大都会に比べ、食料等の物資の不足はあった
が空襲などなくのんびりとしていた。
巷にいわれていた集団学童疎開も柏崎小学校ではなかった。ただ、2〜3年生頃
になると東京に転校した友達も数人おり、後に当時の状況が理解されるように
なって振返ると彼等は疎開児だったのかなと思うことはある。
戦時中の一番嫌で忘れられない記憶は、敵機来襲でけたたましく鳴る警戒
警報の「サイレンの音」である。この音が鳴ると自宅の裸電球に黒い布が被せられ、ひっそりと外の様子を伺い、
状況によっては敷地内に掘られた「防空壕」に逃げ込む。
私の父は北日本製菓梶i現・潟uルボン)に勤め、兵隊さんの非常食であっ
た「乾パン」の製造に従事していたためか、警戒警報が鳴ると密かに徒歩で会
社に駆けつけるため、自宅は母を中心に行動していた。これは心細いものでは
あったが、近隣の家庭では主人が徴兵になった留守家族も多く、我が家は恵ま
れていたほうかもしれない。こんな仕事の関係からか父は軍隊には行かないで
終戦をむかえた。ただ、幾度か赤紙(召集令状)がきて、荒浜の砂丘地へ赴き、
鉄砲を担いでの軍事訓練に参加した。この話から察するに軍隊向けの乾パン製
造で、それなりにお国のためになる仕事をしていたためとおもわれる。
その父も戦後は柏崎市役所に転じ定年まで過ごした。
さて、当時の出来事で何故か思い出すのが、8月1日の長岡空襲の夜である。
いつものように警戒警報が発令となり防空壕に入ったが、上空を通過する米軍
機が異常に多かったのか、向う三軒両隣、数軒で浦浜へ逃げた。
おそらくいつもと違う大軍に家の近くでは危険と感じ、人家から離れようとした
ものと思う。
逃げて浦浜へ向かう途中で、「死ぬときはみんな一緒だて」という大人の話し声
が今でも耳に残っている。
浦浜の砂丘地は大部分が畑となっており、食料として貴重なかぼちゃを踏みつ
け、ガボッと無残に割れる音がしたのを奇妙に記憶している。
確かに上空は今までに経験したことのない多くの敵機が小さな標識灯をつけ通過した。
その内に避難した大人から「理研がやられた、理研が燃えている」との声があ
がった。見ると東の空がボンヤリ明るくなっているように感じた。
実際には長岡の空襲であったことを知るのは後であり、それほど暗い夜の火は
近くに見えたのであろう。
今になって思うと、長岡の空襲が柏崎で見えるわけがないと言われれば反論も
できないが、当時は灯火管制で灯りひとつない夜、遮る建造物は殆どない状況
下で有り得ることと私の記憶に残っている。
事実、長岡の空襲は焼夷弾を周辺に落とし、更に中心街を徹底的に焼きつくす
無残なものであったことは戦後に知った。
いま思い出そうとしても、天皇の「終戦」詔勅放送も「8月15日終戦の日」に
ついても特別な日としての記憶はない。これは両親が敗戦後の予想もつかない困難を、小さな子供に話しても不安を助
長するだけと感じ、心配せぬよう意識して話さなかったのではないかと思う。
戦後の食料難、母の嫁入り時に持参した錦紗の着物(絹織物)をお米と交換
し食い繋いだこと、夜明けを待って豆腐屋の前に家族交代で並び「おから」を
買ったこと、今でもお米は別格で、茶碗に残る一粒のご飯も残せない私たち年
代の多くには、この習性が残っていることであろう。子供の頃はど
れほど農家が羨ましく思えたことか、様々に思い出す。
戦後で忘れられないのが、NHKラジオの「尋ね人の時間」だ。
ラジオから流れるタッタカタカタカタンタンタン〜〜の音楽で始まり、
「昭和○○年頃満州○○市にお住まいになっていた○○さん、○○県○○市の
○○さんがお尋ねです」という尋ね人の放送だ。 かわいそうにね、知って
いる名前が出ないかね、と家中で耳をそばだてて聞いていた。
私はこの始めに流れる音楽のリズムが今も強烈に脳裏に残って離れない。
さて、今年の8月15日も近くなりました。いつも戦争は悲惨なもので、間違いなく人類
が自らを滅ぼしている行為です。何としても避けなければな
らないことを再認識する良い機会となりました。
(相澤昇一)
今回の事で「柏崎編年史」を開き確認して一部分を記載してみました。
◇柏崎編年史に記載事項(陽だまり協力)
昭和15年 7月 :北日本製菓梶A陸軍の軍需品「乾パン」製造を開始
昭和15年 8月 1日:飯米配給量を決定(1人1日・2合8勺として、その
2割を強制節約)
昭和15年 8月 2日:飯米供給通帳を交付
昭和16日 7月21日:市内各中学校、一斉に勤労奉仕にはいる。
昭和17年 3月 1日:食パン切符制、常会長を通じて切符を交付
昭和18年 5月12日:午後9時35分警戒警報発令
昭和19年 5月 8日:柏崎市、第1回疎開の連絡会議開催
昭和19年11月29日:空襲警報発令(このころから警報頻発
昭和20年 3月 2日:柏崎市、灯火管制強化。待避面検討、頭巾整備、ふとん
供出準備、身体(確認)票整備、衣料品疎開を市民に伝達
昭和20年 4月21日:午前7時55分、B29、柏崎上空通過、警戒警報発令
昭和20年 7月14日:B29、西中通村荒浜駅近くに爆弾投下、女子2名爆死
昭和20年 8月 1日:長岡空襲のアメリカ機編隊・柏崎上空を通過
昭和20年 8月10日:警戒警報発令、B29と艦載機数十機、柏崎上空通過
昭和20年 8月14日:ポッタム宣言受託
昭和20年 8月15日:天皇「終戦」詔勅放送