青木恪治
昭和20年のその日、私は小千谷の工兵隊に入隊して間もない二等兵で
した。本来ならば船舶兵として千葉県の部隊に入隊すべきところ、戦争末
期で輸送の手だてもつかず、小千谷預かりという形が取られたのでしょう。
入隊してみて驚いたことに、兵隊には必須の銃剣もなければ水筒もなく、
辛うじて作業服と革靴があるのみ、木銃と竹製の水筒で作戦訓練の毎日でし
た。一部の古年兵が取り仕切っているため、食事のお粗末なこと、量が少な
いこと、また人の持ち物を盗む者がいて油断も隙もないこと、あまりの空
腹に堪えかねた隣り班の新兵が畑の芋を盗んだとして徹底的に殴られてい
る現場も見ました。これが天皇を守る神国日本の軍隊かとつくづく情けなく
思ったものです。戦況はすでに末期症状、敵軍上陸を迎え打つ本土決戦の
直前まで来ていたのです。
毎日の訓練は主に地面を這いずって前進する匍匐(ほふく)練習でした。
敵は九十九里浜から本土に上陸するものと予測していたようです。上陸に
は水陸両用戦車が使われるであろうから、「お前たちは爆弾を抱えてその
戦車の下にもぐり込め、一人の命と引き替えに戦車一台を爆破すれば、い
かに物量豊富なアメリカ軍でもかなうまい」というのが戦争末期の日本軍の
めちゃくちゃな理屈でした。もぐり込む前に射殺されるのは明白、こうして
兵隊を殺すことが目的のような炎天下の訓練は筆舌に尽くしがたい苦しみで
した。ここですっかり体を壊してしまったのは明らかです。
当日、正午のラジオ放送は近くの農家の庭に整列して聞きました。雑音ば
かりで何にも分かりませんでしたが、中隊長の若い中尉が「要するに日本
は負けたのだ」と言った、その言葉が強く耳底に響きました。その時私は
なぜか悲しいという感情はありませんでした。その民家で白いご飯のおに
ぎりを恵んでくださったのですが、人の情けとともにそのおいしさは、無
上のものでした。近くの林で降るようにヒグラシが鳴いていたことと併せ
てその場面は鮮明で今も忘れることはできません。
この日以後は匍匐訓練はやらなくなくともよくなりました。その代わり
信濃川にかかる旭橋の架け替え工事人足をやらされました。復員は9月上
旬でした。一つのゴールは次のスタート、それから戦後の混乱社会を背景
とした私の新しいドラマ、「闘病生活」の展開となるわけです。