私の8月15日
板羽 知光

 高木会長様、青木様に感謝します。
 今夏の猛暑は、近年にない激しい記録的なもので、お盆前に真夏日が22日間も続き、立秋が過ぎて旧盆後の16日からは、また30度を越す厳しい残暑が続き、まだまだ当分この暑さは続く予報です。
 15日発の会長様のメールを読み、《コンピューターおばあちゃんの会》の存在を初めて知りました。その後17日のメールで、青木様がアクセスされた由を知り、私もその日にアクセスして、深い感銘をうけました。
 早速コピーしたところ、A4で26ページ弱になり、その内容の濃さに敬服、特に冒頭の飯田江美子氏、末尾近くの遼東太郎氏の文には強い感銘を受けました。

 想い起こすと、1945年(昭和20年)の8月は猛暑で、終戦の日の15日は朝から雲一つ無い快晴で、学徒動員先の埼玉県東松山市近くの百穴の中島飛行機の地下軍需工場から、工場本部の中庭に集合を命じられ、正午に昭和天皇からの初めての終戦の詔勅を拝聴した時の驚愕と衝撃。その直後米軍艦載機が襲来したり、日本の飛行艇が上空に飛来して、徹底抗戦の宣伝ビラをまくなどの混乱があり、工場の作業を継続する者、中止する者、帰省の準備をする者など、統制がとれなくなったこと。

 17日の午後、占領軍上陸の噂が広まり、4、5名の学友と東上線にのって池袋駅へ行き、そこでバラバラに別れ、上野駅に行き、駅前で長蛇の列に加わり、上越線の夜行列車の機関車の次の石炭車の石炭の上に乗り、高崎でかろうじて列車と列車の継ぎ目のデッキに降り、宮内駅で下車。駅舎は空襲で無く、ここまで、無札でよく来れたと感心する。3食抜きで水だけで、ぎらぎらと光る太陽が恨めしかったこと。

 それ以前、3月11日夜から12日の名古屋の大空襲に遭遇、300機から350機の爆撃は、すさまじく、あっと言う間に、焼け野原となり、リヤカーに家財を積んで、徒歩で知多半島の半田、武豊まで運んだこと。この大空襲で多数の知人を亡くしたこと。

 3月の末に高柳へ帰省し、4月から6月まで荒浜の柏崎飛行機工場(当時)で働き、7月の初めに、前述の埼玉の中島飛行機へ行ったことなど、なお鮮烈に記憶に残る。

 会長様のメールをいつも興味深く読ませて頂いています。この度は有意義なご示唆を賜り、有り難うございました。また、青木様のご示唆にも深謝します。

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