私の8月15日
今 井 清
記  憶

  終戦当時、私は新花町の近くに住んでいた。金毘羅さんより海寄りで、今の北園公園辺りにだったと思われる。当時はそのあたりは柏崎市ではなく、刈羽郡西中通村大字悪田であった。一班で4軒しかなく1軒1軒の間隔も20〜30mあったように思われる。
 今は北園町(戦後出来た) で住宅が密集しているが当時は砂丘で、丘の上は"はまひるがお"が密生していた。近くには競馬場があり、田んぼもあった。冬には田んぼが池となり、雁や鴨などの渡り鳥がたくさん飛来し、白鳥も時には見ることが出来た。
 昭和20年は満6歳、翌年小学校1年生になる時、転居して柏崎小学校に入学した。従って当時の記憶は少なく、子供心に強く印象付けられた事柄が断片的 な思い出となって残っている。その記憶を2〜3件、書き記してみたい。

ひもじさ
 戦争末期には食べるものも無くなり、「腹がへった、腹がへった」とよく母親に訴えたことを覚えている。当時の食事は重湯に近いお粥の中に一握りの団子が入っていたもので、お代わりは無かった。親は何か食べられるものはないかと探し、芋の蔓なども料理したように記憶している。

長岡空襲の時(注参照)
 夜の空襲で東の空が赤黄色に染まっており、機影は見えないが上空を何回もB29が旋回しているようであった。家の中にいては危ないということで、町中の大勢の人が海岸に避難してきていた。

敗戦
 日本が負けてアメリカに占領され、皆殺しにされるかもしれないとの噂が飛び、それを聞いた時、子供心は一瞬息が止まり動悸が早くなって、死にたくない!生きたい!と思った。

進駐
 敗戦により米軍が柏崎にも来て、当時、遊郭であった新花町の関係施設はアメリカ兵の宿泊所になった。チョコレート、チューインガムなどは初めて聞いた言葉であった。

食塩作り
 戦争により物資が無くなり、敗戦直後は家庭でも海水から塩を作った。理研は新花町に製塩所を造り、海までトロ線を施設し、トロッコで海水を汲み上げていた。

(注) 昭和20年8月1日、米軍のB29、125機による空襲。犠牲者、1,460余名、市街地の85%以上が焼失した。(長岡市ホームページによる)

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