私の8月15日
内山 弥生

 高木会長様、青木様のメールを拝見してから、《コンピューターおばあちゃんの会》にアクセスしてみようと思い続けながら出来ないままになっておりました。その後、板羽様が《記憶のままに、「私の8月15日」》をプリントアウトされたことを伺い、8月例会の日にお願いして、その原稿を拝借し読ませていただきました。

 板羽様の8月15日、小竹様の8月15日、戦争を体験なさった多くの皆様の生の言葉は力強く、平和ボケにドップリつかって、こういう生活があたりまえだと思っている昭和二桁以降の世代には強烈なパンチでした。《コンピューターおばあちゃんの会》の原稿は、板羽様のご了解の下に、池田さんの後、《NET・陽だまり》のテーブルの上に置かせていただきますので、皆様どうぞご覧下さい。

 私の8月15日近辺の記憶で印象に残っているのは、2つとも茜色の背景に鉛色のシルエット、一つは8月1日の長岡空襲の夜のことです。私はソフィアセンターから本町通りに出る小路の中ほどに住んでいました。母と私は玄関の前にいて、長岡が爆撃を受けている間中、東の空が真っ赤で、高桑医院のご自宅、ムラタ家具さんの建物等が鉛色のシルエットになり、空とシルエットの境界線がひときわ色濃く、とてもきれいでした。(こんなことを言って誠に申しわけありません。)

 母は、長岡方面に向かって手を合わせました。「見なさい。長岡では沢山の家が焼かれて皆が逃げ惑っているんだよ。」と私に説明するのですが、5歳の私にはそれがどういう事か理解できませんでした。
 もう一つは、私の兄の戦死の知らせが来る来ないの頃、近所に住んでいた叔母が立ち寄り、玄関の上がりかまちに二人で腰を下ろしたかと思うと、何も言わずに目から湧き出るなみだを手ぬぐいで抑えていた姿。

 かあちゃんが泣いている。気丈な母が泣くなんて……。私は見てはならないものを見てしまったような気がして、身の置き所がなく離れたところに居りました。その時も夕焼けの中に、叔母と母の姿がシルエットになって見えました。

 8月1日の長岡空襲の翌日、女学校生の姉、2歳の妹は家を離れることは出来ませんでしたが、私は5歳でしたので、万一のときに安全な場所に置いたほうがよいとの両親の計らいで、久米のケイ子ちゃんの所へ疎開させてもらいました。ケイこちゃんは当時家の手伝いをしてもらっていた女性で、私は彼女に大変なついておりましたので、私は両親と別れるのを何とも思いませんでした。

 終戦までの15日間、私は久米で過ごしました。いろいろなことがありました。衣類の虫干し、神社での仮装盆踊り、川で水遊び(ヒルが足について困りました)、蛍狩り……。私にとりまして、久米での思い出は宝物となりました。それほどにケイ子ちゃんが気を配ってくれたのでしょう。15日に終戦になり私も里心ついたのでしょうか、翌日ケイ子ちゃんの自転車の荷台に乗り家に帰りました。

 細越の坂が、当時の私にはスキー場の中級コース位の急な坂に思えたものです。 私の8月15日はこのようなものでした。

 人は誰でも幸せになる権利があるのに、その運命を狂わせ、あらゆる物・環境を破壊し、人の心までも狂わせる戦争は、絶対に起こしてはならない。かわいい孫たちを絶対に戦場に送ってはなりません。

 ここで一つ提案がございます。柏崎の悲劇「アルロンシャン」を、全部は大変でしょうから、一部を有志で入力し《コンピューターおばあちゃんの会》とリンクをはってもらったらいかがでしょうか?国策のもとに満州柏崎村を建設したというのに、平和ボケの私たちには想像を絶するような苦渋をなめ尽くした結末が待っていたことを……。戦争にまつわる生の声を決して風化させてはいけないと思いました。

 高木会長様始め青木様、板羽様、小竹様、私に戦争のことを考えるきっかけを与えて下さいましてありがとうございました。大変遅くなりましたがこれが私の5歳のときの記憶です。

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