私の8月15日
大岡洋子

  戦前、両親は満州に渡っていた。父の2人の叔父は陸士を出た後、一人は張作霖の兵器廠顧問として満州におり、もう一人は蒙古を愛するあまり、陸軍に数年間の蒙古留学を願い出て許可され、その後陸軍大佐のときについに職を辞して自由の身になって蒙古独立のために働き、蒙古に骨を埋めることになった。(叔父が亡くなったときは、大勢のラマ僧が遺骨を携え日本に来て、盛大なお葬式をしてくれたそうである。)
OJI SEISUKE  その叔父たちに強く憧れ、大陸に憧れて、官吏として満州にわたって行ったのだということを聞いている。呼?県の副県長や浙江省の民生顧問までしたという父が満州の荒野を馬で駆け巡る姿を想像すると胸躍るような気がする。父も叔父たちと同様に、多くの立派な中国人に出会い、中国の国土を愛し、中国の人々を敬愛していたようである。

 

 終戦時、兄は2歳で両親はほとんど身一つで命からがら日本に引き上げてきた。そのときは中国人の友人にもずいぶん助けていただいたということである。父は、夢も希望も破れて身体ばかりか心までもぼろぼろになって終戦時の苦難の時を過ごしたらしい。両親は私にはほとんど戦前と終戦時の話をしてくれていないので、そのつらさを想像するだけである。まだ私は生まれていなかったので何もわからない。

 戦後、和歌山県日高郡の片田舎の父の実家でかーわいい猿みたいな私が生まれたときは、両親は製粉工場をしていた。私が3歳のとき、日高川が氾濫して工場も家も何もかも水に流され、またも身一つになったばかりか、借金まであって貧乏のどん底に陥り、2度目の苦難の時を過ごすことになった。しかし、困ったときはいつもどこからか親切な人が現れ、何とかしのいで生き延びることができた。こんな風に友人や隣人に恵まれるのは、もしかして天が我が家を哀れんでくれたからか?他人に親切を受けるばかりの我が家でありながら、楽天的で前向きでぜんぜんくじけない両親と子供たちだったので、涙を流しあった記憶は全くなく、たいてい明るく楽しいふんいきで、私も幸福だった。(年老いた母が現在語るところによると、両親はお金のことで大分苦労していたらしいが、子供の私にはわからなかった。)

WAKASIMA-ZEKI TO  和歌山から大阪、さらに東京に流れて来て、東京中をあちこち転々としたが、そのうち私が16歳(高校生)のとき一番気に入った東京の小平市にどっしりと落ち着くことになる。東京では相撲取りだった(関脇までいった)叔父(父の弟)がお金持ちで随分助けてくれたのを覚えている。でも総じて、全く血縁関係のない友人、知己に助けられて何とか生きてこられたような気がする。お金や地位に恵まれなくても、友人・知己に恵まれれば十分幸福になれることを実感してきた人生である。

 は3年前に92歳で亡くなり、母は今87歳で一人で暮らしている。戦前戦後を通じて長い道のりを歩んだ父の思い出、そしてお世話になった大勢の親切な方々の思い出を背中にずっしりと背負って私は生きている。また、この重い前世代から渡された荷物を次代の我が子たちに伝えられることを希望しながら生きている。

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