小竹 進
NET・陽だまりメーリングリストの皆様 小竹です。
高木会長、板羽さんの「8月15日」から半月経ってしまいました。丁度私のシステムがトラブって仕舞ったときでした。気になっていました。メーリングリストは返信を期待しないものですが、このテーマでお二人の書き込みで終わってしまいそうなのが残念なので、あえて書かせていただきます。
我々の年代では誰もが持っている「8月15日」、私は昭和20年は中学2年生でした。当時上級生は学徒動員で学校には来ません。夏休みでも警報がかかると市内の当番は、ゲートルを巻いて学校へ駆けつけました。真っ暗な中で「学校を守る」任務がありました。防空壕の上に仰向けになって星空を見ると、流れ星がたくさん降っていました。「なんとか流星群」を見たのかも知れません。
8月15日は今で言えばフェーン現象だったのでしょうか、すごく暑い日でした。午前中は親戚の畑の手伝いをして家に帰り、正午ラジオで天皇陛下の「重大放送」を正座をして聞きました。私の家は経済的に貧乏な家でしたが、ラジオがありました。雑音が多く難しい言葉でよく判らなかったが、最後の「ちんのいをたいせよ」というのは判りました。
父は「戦争が終わった」と一言いって仕事に行きました。午前中の仕事の疲れもあったのか、体中から力が抜けていく感じがしました。
NET・陽だまりメーリングリストの皆様 小竹です。
記憶がだんだん薄くなる少年時代を、皆様の「8月15日」で呼び戻しています。
楽しくない、思い出したくない思い出もありますが、年寄りの繰り言に終わらせたくない思いもあります。
松根油(ショウコンユ)を作るのだといって、板羽さんのメールにあった荒浜の砂丘(飛行場が出来るのだと聞いていました。)で、松の根を掘りました。
先のとがった剣シャベルを担いで、炎天下を荒浜まで歩き、日陰のない砂丘で作業を続けるのですから、身体の不調で倒れる人も出てきます。友達同士で苦しいときはお互いに助けあっていました。
学校の時間割の中に「作業」という時間が多くありました。そのおかげか鍬や鎌の使い方を覚えました。食糧が手に入り難くなり、空き地を借り、母と畑を作りました。
国旗・国歌法が成立して、直ちに記者会見会場に国旗を持ち出すのは、「米国の習慣に習ったのでしょう」と簡単に済ますことが出来ないものと思います。この法案にこだわった本心が現れています。国を愛することの表現方法は別にないものでしょうか。