海津昌弘
き ず な
退職の日が近づいた晩秋の、とある日、家内が私に、「お父さん、わたし海外旅行や温泉めぐりはしないでいいですから、国内の美術館をゆっくりと見て歩きたいもんですね。」と、言ってくれた。
貧乏所帯を知ってか、ありがたいと思っている。
私と家内とは職場も同じで、ずーと一緒に働いてきたものだから、お互いの趣味や好みも大体わかっていたから、喜んで賛成した。
ところが年老いた母が二年程前から病に倒れ、介護が必要な状態になった。ショートステイという名のもとに、「山里の家」にお世話になったこともあった。施設に置いて帰るときの母の顔が、「置いて行かないで…。」と、悲しそうであった。その時ふと、「姥捨て伝説」が、私の頭をよぎった。切ない思いをした。もう少しの人生だ…‥。出来ることなら、わが家で面倒を見てやりたい、と思うのは私だけだろうか…‥。
そんな次第だから、家内との約束がまだ実現していない。心苦しく思っている。
このような事情を知ってか、子供たちが私にパソコンを買ってくれた。「お父さん、これでインターネットに接続して、母さんの好きな美術館の名宝、名品を見せてやったら。」と、言ってくれた。
ワープロもろくろく出来ない私だったが、幸い情報学院の小山先生との出会いでパソコンも教えていただき、現在の「陽だまり」のお仲間にも入れていただくことが出来た。ありがたく感謝している。
メールでの子供たちとの交信は、私にとってかけがえのない家族への「絆」であり、「陽だまり」の諸先輩は、私の宝である。このパソコンを通して結ばれている「絆」を、大切にして行きたいと思っている。
現在は、「ファイル管理」を小竹先生からご指導いただき、楽しく毎日を送っている。「あせらず、あわてず、あきらめず」に。
きずな(U)
母は50年も前に夫に先立たれ、女手一つで私達子供(男4人)を教育してくれた。気丈で典型的な明治女であった。
私が家内と一緒になってからは(共稼ぎだったから)、孫の面倒は全ておばあちゃん任せだった。いやな顔一つせず、可愛がってくれた。どこへ行くにも二人の孫を連れて出掛けた。
その娘が5歳の頃のことだった。幼稚園でお遊戯のときだった。なかなか踊りの輪の中に入れずにおずおずしている孫娘を、自ら手を取って踊りの輪の中に入れてくれた。また、いたずらした時には、親がはらはらするほど強く叱ってくれた。
或る時、孫の息子が学校でいたずらが過ぎ、呼び出しがあった時などは、自ら学校へ出掛けていって先生に謝ってくれた。
夏になると、我が家の裏がすぐ浜辺であったものだから、孫達は海に連れて行ってくれとせがむ。何時も水泳の監視役で浜に行ってくれた。
あの広い浜辺の炎天下、手拭いで頬かぶりをして立っている姿が、今でも脳裏に浮かぶ・・・。
母は若い頃から、与謝野晶子の詩が好きであった。「旅順港包囲軍の中にある弟を嘆きて」と題する、『ああ、をとうとよ、君を泣く、きみ死にたまふことなかれ・・・・』の詩を良く口ずさんでいた。尋常小学校しか出ていなかった母が、どうしてこの詩を暗誦できたのか、不思議でならない・・・・・。
あの頃は(昭和18,9年)戦争と貧乏のどん底で、悪戦苦闘の連続であった。
好むと好まざるとにかかわらず、父が、夫が、弟が、お国のために、と言う名のもとに戦場に狩り出されてゆく(?)姿に、母はやりきれなさを感じていたのだろうか・・・・・・。?
「あゝ○○よ」、君死にたまふことなかれ・・・・・・。と、誰もが抱いたのではないだろうか・・・・・・。
人は皆、先祖からの熱き血汐が流れている。この熱き血汐が家族を結ぶ『きずな』となって、連綿と現在に連なっている。
この母も、4年程前から病に倒れ、孫達の顔がなかなか思い出せなくなった。それでも孫達は帰省すると、イの一番におばあちゃんの顔を見に行く。手を取り、頬ずりをする。目が笑っている。「あ・が・う」と・・・・。
その母も、この5月に、この世を去った。
今日も孫達からのメッセージが届く。「おばあちゃんありがとう」だった。
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