菅沢重蔵
ちょっと夏休みをしていたパソコンをオンにしてEメールを開いてみましたら大変な内容のメールが行き交っていました。
私たちの年代のものにとっては、心の奥底に決定的な痕跡を残した日でありました。その日は、小学校の高学年の夏休みの真ん中の日でした。
県北に近い小さな町に育った私は戦争を実感することはあまりありませんでした。それでも毎日の全校朝会では、日の丸を掲揚し、皇居のあるという南東の方向を向いて君が代を歌いました。教室では天皇のため、国のため命を投げ出して戦う兵士にならなければと教えられました。がき大将だった隣家のMさんは、満蒙開拓青少年義勇団として旅立って行きました。先生からすすめられて志願したのだと聞きました。私の二人の兄も相次いで出征していました。
その年の夏休みは4キロほどのところにある松林から松脂を採ることを言いつかりました。ゴムの木と同じようして松の幹を傷つけて松脂を採るのでした。一人五本ずつの分担でした。採り溜めた松脂は休み明けに集めることになっていました。戦闘機の燃料になるとのことでした。戦争の一翼を担っているという少年らしい誇りがありました。
あの聞きとりにくいラジオ放送の次の日から松脂採りは中止でした。休みが終わってから集められることもありませんでした。なによりも「天皇のため、国のため」がどういうことであったかという話は全くなく、ただ「民主主義」の時代になったということを何度も何度も聞かされました。誰よりも(見たこともない天皇よりも)偉いと思っていた担任の先生を不思議に思ったのを今でも覚えています。成長して、計らずも教師になることになったとき、この思いを教訓にしようと心に決めたのでした。たった一つの考えで世の中が動こうとするようなことになったら、何としても別の考えを見つけ出してそれを伝えなければならない、そんな思いでした。
幸い、このことで人生の岐路に立つこともなく職を終えることが出来きました。それにつけても国旗、国歌法の決定は残念でなりません。徹底的に論議をつくすべきであったし、決定したからといって、それをあらゆる場に押し付けることは断じて許せないことです。新聞の投書のようになってしまいました。お許し下さい。