高 木 正 幹
皆さん、東京から高木です。
今年はお世話になりました。改めて厚く御礼申し上げます。
NET・陽だまりの「私の8月15日」シリーズに多くの方から寄
稿をして
頂きながら、私は取り紛れて、まだ寄稿できずに年末になってしま
いました。
来年8月までに編集してもらえば?とは思いますが、1900年
代、最後の
大晦日を迎える気持ちを整理する意味で、重い腰(キータッチ?)
を
上げました。私の8月15日(その1〜3)と題して終戦の年の思
い出を
辿ってみますので、お正月にでもご笑覧ください。
【その1】
昭和20年には、私は旧制都立中学三年生でした。前の年から勤労
動員で
下丸子にある無線機工場の機械現場で働いていました。
我が家は長
男の
私以下、男の子4人兄弟でしたが父の方針で、弟たちが学童疎開を
しなかったので、当時の首都食料事情から母が苦労していたことが
思い出
されます。
お米が足りませんから、麦めしはもとより、切り干しご飯、サツマ
イモ、
豆かすご飯(新潟の人に想像できますか?)などが主食で、グリー
ンピース
を炊き込んだご飯はご馳走の部類でした。
もちろん庭中を掘り返して、水稲と西瓜を除く、主な日本野菜・穀
物を作り
ました。近所の畑で作った小麦を脱穀し製粉して、自家製電気パン
焼き機
で蒸しパンのようなものを作ったこともあります。
配給の魚はいつも臭いスケソウダラが多くて、たまに鯨肉がくると
大喜び
でした。
昭和20年3月10日、東京下町の大空襲では、東の空が真っ赤に
染まって
被害の大きさを心配しました。今、考えると無意味だと思います
が、当時の
指導にしたがって、庭に防空壕を掘り、材木で屋根を覆い、その上
に土を
20cmぐらい被せます。空襲警報が鳴ると家族一同が防空頭巾を
被って
防空壕に入るのです。父と私は肩まである頭巾の上に鉄兜を被り、
ふたつ
ある出入り口で見張ります。
【その2】
昭和20年5月頃だったと思いますが、勤労動員先の工場が空襲
で、
ほとんど全焼したので、毎日焼け跡の片付けばかりしていました。
ある夜、B29の編隊が低い高度で東京西部に侵入し、大田区の我
が家
の真上で油脂焼い弾(モロトフのパン籠)を多数投下しました。幸
い強い
南風に流されて三軒先の家まで焼けてしまいましたが、我が家は無
事
でした。しかし油脂焼い弾の油が屋根の上で何個所も炎を上げてい
る
のです。私は防火水槽の水をバケツに汲んで屋根の上をめがけて
水を掛けました。しかし、慌てているので水は屋根まで届かず、畳
部屋
の中を水浸しにしてしまいました。当時は爆弾の爆風被害を避ける
ため、
雨戸、ガラス戸を全開するよう指導があったのです。
父のアドバイスもあって、梯子を掛けて屋根に登り、水をかけよう
とした
頃には、焼い弾の火は自然に消えていました。
昭和20年6月27日には、同居していた父方の祖父が81歳で亡
くなり
ました。当時お棺が入手できず、家の棚板を外し大工さんに頼ん
で、
お棺を作ってもらいました。近親のみの密葬後、数キロ離れた焼き
場
までお棺を運ぶ手段探しに、父が苦労していました。
【その3】
昭和20年5月頃から米軍艦載機の来襲が頻繁にありました。す
でに
制空権を取ったアメリカ空母が日本近海にきていたのでしょう。
勤労動員先の工場で警戒警報を聞き、学徒は全員帰宅せよという命
令が
出ました。6月頃のある日、私は自転車通勤をしていたので、友達
を後ろに
乗せて帰路につきました。
多摩川土手を北上していると、突然、単発の米戦闘機(グラマン
?)が
私たちをめがけて襲い掛かってきました。夢中で自転車を放り出し
て土手の
内側に、倒れ込むように伏せました。それを追いかけて機銃掃射の
弾丸が
エンジン音と共に降ってきました。幸い機銃弾は数m横に土煙を立
てながら
外れてくれました。私たち学徒は陸軍の兵隊さんと同じカーキ色の
制服で、
戦闘帽を被り、軍靴ゲートル姿でしたから米軍機のパイロットにし
てみれば
攻撃するのが当然の行動だったのでしょう。
しかし私たち2名が難を逃れた後、土手の下道を徒歩で帰宅中の友
人たちも
機銃掃射をくらいました。道路脇の溝に倒れ込んで機銃弾をよけた
友人も
いたそうです。幸い怪我人は、ひとりも出ませんでしたから、当時
も笑い話で
済ませましたが、今考えると背筋が寒くなります。
一人でも犠牲者が出ていたら、米軍機の目標となった私の自転車の
責任は
逃れられません。悔恨の重荷を背負った人生を覚悟しなければなら
なかった
でしょう。米軍機パイロットの未熟さに感謝している今日この頃で
す。
昭和20年8月15日、工場に焼け残った青年学校校舎で終戦の玉
音放送を
聴きました。気だるい夏の暑さを覚えています。