私の8月15日
中山 俊雄

 陽だまりの皆さん老人の中山です。
 先般来数多くの方々から寄せられた「私の 8月15日」を拝読して大変感激しております。青木さんのご提言に対して前沢さん のメールには「私より年輩の方々は私よりはるかに言いたいことや貴重な体験を持っ ておられるわけですから・・・・」と、私たち老人に対する叱咤激励の一文が有りまし た。終戦当時小学生だった方も多いようですので、当時社会人だった私の経験をお話し するのも一興かと思い駄文ご披露いたします。
 前後の事情を入れると少し長くなりますので、何回かに分けてお届けいたします。

ーその1ー
【まえがき】
 昭和20年、それは私にとって人生の大変換をもたらした実にめまぐるしい激動の 一年でした。
 私は東京の或る電機メーカーに在職中、昭和15年に召集を受け、中国大陸に出征いたしました。大東亜(太平洋)戦争の勃発と同時に、香港、ベトナムに転戦し、2年後に帰還、会社に復職しました。
 復帰後命ぜられた職場は、軍需省(当時は戦争のために兵器やその他の物資を一括確保提供するための役所でした。)の要請で爆撃機に搭載するための兵器の研究開発をする部署でした。この研究は約1年かかって完了実用化のめどが立ちました。

【軍需工場への出向】
 昭和18年秋、私共の会社と光学器メーカー、もう一つの電機メーカーとで社員を出し合い、航空兵器会社が設立されました。私も出向者の一人でした。
 会社は軍需省の指揮下にあり、「皇国第○○○工場」と命名され○の中は 一連の番号の数字で、防諜関係から出入りのチェックは厳しいものでした。
 場所は横浜市保土ヶ谷区にあった或る紡績会社を、建物、従業員ぐるみ接収 しての操業開始でした。年が明け、私は西戸部の高台にある借り上げ社宅を提供され、ここから会社に通いました。当時私は33歳、6歳年下の妻と1歳の長女の3人の生活でした。
 従業員は紡績会社だけに大半が女子でしたが、訓練の甲斐あってか生産も順調に伸びて来ました。

【空襲の始まり】
昭和19年春ころから東京はチョイチョイ空襲を受けるようになり、7月、サイパン島が陥落するや、B29による空襲が次第に激化し、私共の会社でも避難訓練が頻繁に行われました。
 日本軍の旗色がだんだん悪くなるのに反比例してノルマは次第に増え、軍の監督官も気ぜわしく工場内を駆け回り、叱咤激励の毎日が続きました。
 兵器増産のため徹夜の作業もしばしばでした。私共は眠気防止のため与えられた覚醒剤を飲んでは頑張りました。(戦後覚醒剤の人体に及ぼす被害がやかましく叫ばれましたが、当時はそのようなことは全く考えもせず、軍も平気で支給していました)

ーその2−
【空襲の激化と市民生活】
 昭和19年3月にはいると米軍はマニラを陥し、日本との距離はますます縮まりました。3月8日夜半から明け方に掛けてフイリピンを発進したB29の大編隊が、次から次ぎへと帝都東京の空に飛来し、無差別爆撃を敢行しました。私共男子社員は非常呼集の指示を受けたわけではありませんが、ラジオの空襲情報を聞き、自発的に会社に集結、爆撃に備えました。ここから東の方を見ると空が真っ赤に染まり、時折ドーン、ドーンという地響きが鳴り響き、爆撃のものすごさを見せつけられました。

   その後横浜にも爆撃が繰り返され、あちこちに焼夷弾による火災が起こりました。町内会の配給も次第に間が遠のいたり、量が減ったりしました。
 しかし、幸いなことに軍需省の外郭団体に産業報国会(通称産報)という団体があり、軍需産業に従事する者に衣料品、医薬、食料、日用品などの特別配給がありました。従って町内会の配給で不足する分はこれでカバー出来ました。特に有り難かったのは粉ミルクの配給でした。妻は長女出生の時から母乳が不足で、育児には絶対に必要な品でした。この頃妻は次の子供を身ごもり、お腹も日毎に目立つようになりまし た。

 日常生活でたった一つ困ったのが「薪」でした。私の社宅には水道はありましたが、ガスはありませんでした。従って食事の煮炊きは薪以外に方法はありませんでした。(風呂は銭湯でした)
 薪の配給は産報にもなく、一週間に一回、町内会で配給する直径30p、長さ数十pの製材くず一束だけでした。妻の悲鳴に応えて私も休憩時間に社内のあちこちに落ちている木片を拾い集めて、鞄の中に偲ばせて持ち帰りましたが、守衛に見透かされているのではないかとヒヤヒヤものでした。
背に腹は替えられず、悪いこととは思いながらも社宅の廊下の縁張り板を一枚ずつ剥がし、薪に替えました(後でこの社宅も空襲で焼け私の罪は帳消しとなりましたが・・ ・)

  この年の11月妻は二番目の子供を出産しました。産院はどこも満員だと体よく断られ、自宅で産婆さんを呼んでの出産でした。幸い元気な男の子でした。
 横浜の空襲も日増しに頻度を増し、サイレンの度に、妻は生まれたばかりの長男を背負ってヨチヨチ歩きの長女の手を引きながら、縁の下に掘った形ばかりの防空壕に逃げ込みました。(この防空壕は私が休日を利用して掘った直径、深さ1mほどのチャチなもので爆撃に耐えるような代物ではありませんでした)

 年が明けると市内の爆撃はしだいに激しくなり社宅の近くにも爆弾が投下され、身の危険が間近に迫って来ました。もう鉄兜なしに街を歩くことは出来ませんでした。私は真剣に家族の疎開を考えるようになりました。

ーその3ー
【家族の疎開】
 市内の学童達は前年夏、既に集団疎開をしていました。戦局の厳しさに家を空けて地方に疎開する家族も次第に増え、空き地には和箪笥や大型の家具がごろごろと放置してありましたが、誰も持ち帰る者はありませんでした。
 4月3日は私の郷里の春祭りでしたので、せめてこのお目出度い日を妻や子供に味わあせてやりたいと、数日前に区役所での転出届けや必要な手続きを済ませ、荷物輸送の申請のため最寄りの国鉄の駅に行きました。ここで転出証明書を提示して人員の確認を受け、乗車券と荷物積載承諾書を手に入れました。ここで手にした荷物の量は石油箱5個でした。(石油箱とは石油の1斗缶2こを収納する木箱でした)。

 当時、石油箱はなかなか手に入りませんでしたが、指定の木工所に行き、この承諾書を提示すると新しい木箱が買われました。
 私は会社からリヤカーを借り自宅に持ち帰り、荷作りに掛かりました。
 茶の間一杯にあれもこれもと並べた、持ち帰り品は半分も入らず、結局妻の着物と育児用品だけになってしまいました。
 妻と荷物を送り出して我が家に帰ると、茶の間は一面の荷物の散乱で足の踏み場もないほどでした。
 家族を避難させた安心感、これからの一人暮らしの味気なさ、戦争の将来性。私は言いしれぬ虚無感におそわれ、足で荷物を片寄せた僅かばかりのスペースに倒れるように仰向けに寝ころび、天井の一点を凝視したまま、小一時間ほども放心したように畳みの上にいました。

【下請けからの部品納入遅延】
 私共の製品は自社で製造する大部分の部品と数十社から納入される部品の組立によ り完成するものでした。
 下請け会社の中には、工場が被災したり、従業員の家庭が被災したりで、納品が遅れる社が増え始めました。特に富山市にある鋼材メーカーから納入される二次製品は精度が悪く、こちらで手治ししないと使えないものが多数ありました。社内会議の結果、こちらから技術指導員を派遣することになり、私ともう1人の部下が指名されまし た。

ーその4−
【出張と長男の病気】
 この年の3月硫黄島の部隊が全員玉砕したと発表され、内閣も東条、小磯、鈴木と目まぐるしく代わり、銭湯で聞くうわさ話でも、負けがこんで来た憂鬱な話しばかりでした。

 5月初めに妻からの手紙が届き、ご飯もうまく、菜も新鮮で魚もチョイチョイ食べられて、長女もすくすく育っている。ただ困るのは長男のミルクが足りないことだ。時折お義母さんに町内の妊婦さんの所へ連れていって貰い、おチチを飲ませて貰っているが、人様も子育てのことであり、そう何度もと言うわけには行かない。と苦衷を訴えておりました。

 5月15日、私たち2名は富山市に行き、会社を訪ね工場長にお会いしました。
 納入品の精度の話しをすると、工場長は「私共の工場は図体こそ大きいが (偉大なる町工場)でして、その方はまだまだ・・・・」 と自嘲とも言い訳ともつかない苦笑いの応答でした。事実、工場内に入ってみると、不慣れな徴用工が多くおりました。聞いてみると「私は呉服屋でして・・・」とか、「私は食堂を経営しております」などと異業種の人も大分おりました。
 出張命令は約2週間でしたので、私たちはこれに基づいて計画を立て翌日 から技術指導の作業に掛かりました。

 作業も計画通り順調に推移しておりましたが、5月19日夜、夕食時に妻から電話があり、長男の母乳不足を補うため、母から教わった白米を細かく摺りつぶして、水とともに煮て裏ごしにしたものを併用していたが、3,4日前からお腹をこわし床についた。近くの医者に診て貰っているが熱が下がらないので、柏崎の医者に往診を依頼し、診て貰ったところ、「膿胸」と診断され、早い手術が必要だ、と言われたので帰って ほしいとのことでした。
 早速工場長の自宅に電話をし訳を話すと、作業も順調に進んでいるし、もう1人の指導員もいるのでこちらのことは心配せずに行って来い、と言う返事。 最終列車に飛び乗って深夜に帰宅し、容態を見ると熱が高く苦しそうでした。

 翌日当時柏崎では唯一の病院である柏崎病院に駆け込み診察して貰うと、肺炎から併発した膿胸で、胸膜内のうみを手術によって取り出す必要がある。手術は午後から行います。それまで病室で待機して下さい、と言われました。

 午後1:30移動ベッドで手術室に運ばれ、長男は俯せにされベッドに緊縛されました。執刀は今は亡き相沢圭介先生でした。先生は「今は麻酔薬が無いので少し痛がるかも知れないが、このまま切開します。」とのことでした。
 妻は怖いと言って手術室の前の長椅子で待っておりました。
 先生は長男の右肩下にメスを当てると一気にサッと15pほど切り下ろしました。その瞬間、死んだように俯せていた生後6ヶ月の長男は、「ギヤツ」とも「キヤツ」ともつかない異様な叫び声を発したあとウンウンとうなっておりました。背中からはドス黒いような膿と血液の混じった液体が流れ出ていました。
 幾たびかの戦闘で敵弾に当たって死んでいった戦友の最後を見届けた私でしたが我が子になると格別でしょうか、思わず失神しそうになり、ヨロヨロと倒れそうな体をやっと堪えて、室外の妻の居る長椅子に逃げ出しました。
 中からは内蔵でも抉られているのか、まだ言葉も知らない嬰児のウーン、ウーンといううめき声が間断なく聞こえてきました。小さな命が生きんがために、最後の力を振り絞っている様子が痛いほど胸に響いてきました。
 2時間後、個室のベッドに横たわっている長男は背中、包帯を巻かれてゴム管の先に袋をブラさげ、呼吸の度に膿が流れ出ていました。
 私は先生にお礼と今後のお願いをして、その日の夜行で富山に帰りました。

ーその5ー
【横浜大空襲】
 私たちの技術指導も予定の日数をこなし、製品も立派な物ができるようになりました。指導最後の日5月27日はちょうど土曜日でした。午後作業が終了した後、本社の上司に電話をいれ業務結果の報告をすると、ご苦労だったと労をねぎらう言葉と、明日は日曜だからゆっくり富山を見物して、あさって帰れという話しでした。工場長の所へ挨拶に行くと今晩食事を一緒にしたいからと誘われ、近くの料亭に招かれました。宴席には課長や2,3の技術者もいて、実習中の思い出や今後の予定など賑やかに話し合った後別れました。翌日の日曜日は街に出て見物や土産物を買い明日の出発準備に過ごしました。

 5月29日、朝の列車に乗り込み午後2時頃長岡に着き乗り換えのため下車、一時間半ほど時間があったので一旦外に出てすいとん食堂を探し、昼食を摂って居ると、他の席の人が横浜空襲の話しをしておりました。席を立って詳しく聞き返すと、お昼のニュースで聞いただけでハッキリしたことは分からないとのこと。本社に電話を入れて詳しい話しを聞こうと郵便局を探し、市外電話を申し込むと、横浜には通じないとのこと、局員の話では、今朝B29の編隊が横浜を爆撃したが我が方の損害は軽微という発表だったとのこと。工場の安全を祈りながら、はやる心を抑えて車中の人となりました。

【工場焼失】
 横浜に着いたときは夜でした。外に出てみると一面の焼け野が原で、暗い闇の中にあちらこちらで残り火がチロチロと燃えていました。「コリャー損害軽微なんてもんじゃネーぜ」と呟きながら、鞄から取り出した懐中電灯を頼りに会社の方へ歩を進めました。普段何回となく通り慣れた道でしたが、両側の建物や目標になる建造物がが全く無くなってしまったため道に迷うこと数回。
 普段の何倍もの時間を費やしてようやく会社へ、というより会社のあった場所にたどり着きました。会社工場は少し離れた所にあった社員寮1/3を残してきれいに無くなっていました。暗闇の中に上司を捜して復命し、その夜は焼け残った寮の大広間で着のみ着のままの雑魚寝で過ごしました。

ーその6−
【大空襲の規模】
 これは何年か後に同僚などの証言を確認するため、或る書籍で知り得たことなんですが、参考のため要旨を再録します。
 『昭和20年(1945)5月29日は月曜日、朝から快晴で無風状態であった。 午前9時20分ころから空襲は始まった。B29爆撃機が517機,P51戦闘機が101機の大編隊がマリアナ基地からやって来た。爆撃はちょうど68分続き大都市横浜の市街地は壊滅した。被爆地域は鶴見・神奈川・中・南・磯子・西・保土ヶ谷区と全市面積の5.7%、罹災人口は45%』とあります。
 同僚は空襲警報とともに防空壕に逃げ込んだが熱風と人いきれで苦しくて死にそうだった。早く爆撃が終わるよう、それだけを神に祈ったと述懐していました。当然の事ながら、私の社宅も跡形もなく焼けていました。

【工場疎開命令】
 私共は毎日焼け跡の整理におわれておりましたが、首脳部は軍需省との折衝に忙しく立ち回っておりました。
 一週間くらい後、新たな社命が発せられました。
 1,工場は長野県臼田町、臼田女学校を疎開工場と定め移転する。
 2,社員、男子工員は疎開工場に転勤、女子工員は指名されたリーダーを除き解雇、帰郷させる。
 3,疎開工場での作業は、当社従業員と臼田女学校生徒を以て編成する女子勤労挺身隊員と現地徴用者で当たる。
 4,社員は軍需省より支給された機材を運搬するトラックに搭乗、責任を持って輸送の任に当たること。

 翌日から軍の指定した工場に赴き機材を受領し、長野までの陸送に従事しました。道中、昼間はグラマン、夜間はB29の編隊に遭遇する事がしばしばありました。 こんな時は木陰を選んでじっと身を潜め、通過を待っての発進でした。
 輸送が一段落し、工場の形態も整い、作業を開始したのは6月も半ば過ぎでした。

  ーその7−
【臼田疎開工場】
 臼田町は小海線沿線にある静かな町でした。ここにある女学校は生徒数300人ほどの小じんまりした学校で、ここの屋内運動場が工場に当てられました。
 生徒は2斑に分けられ、1斑は工場、2斑は校庭に作られた菜園での農耕作業で、1週間くらいの周期で交互に作業が替わりました。私共は教室の一部に寝泊まりし、挺身隊員の教育に当たりました。初歩の理論と実習の繰り返しでしたが、生徒は真面目で、熱心にノートにメモを取ったり、実技に挑戦したりで、1か月くらいで一次製品が出 来るようになり、後は熟練した工員が製品にまとめる作業で8月初めには何とか少しずつ出荷出来る段階に漕ぎ着けることが出来ました。

【玉音放送】
 8月15日は朝からジリジリと暑い日でした。朝、構内放送で正午に重大放送があるから全員屋内運動場に集まるようにと知らされました。みんな何事だろうとささやきあってその時を待ちました。
 正午前に作業台に場所をとられて手狭になった運動場に整列し、正午の放送に耳を傾けました。
 『朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト 欲シ・・・』そして『堪ヘ難キニ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ・・・』詔書は続くのですが雑音で一語、一語はハッキリ聞き取れず、総じて戦争に負けたと言うことが分かりました。生徒の中には漢語の意味が分からず引率の先生に質問した後、涙を浮かべる者もおりました。
 沈痛な雰囲気の中で午後の作業は中止と決まり、一同は解散しました。
 午後社員は一室に集められ、今後どのようなことになるのか分からないが軍の指示があるまで現状を維持するよう指示されました。
 自室に帰って同僚と今後の会社の状況、身分の不安、家族のこと、生活のこと、止めどもない沈痛な思いで暑い昼下がりを過ごしました。
 外の蝉時雨がひときわ高く静まり帰った部屋に響いてきました。

 

ーその8−
【工場閉鎖】
 翌日から私共は膨大な量の図面や機密書類の焼却、機械器具の清掃手入、、製品、半製品の整理分類などの作業に従事しました。当然のことながら夏休み中でしたので生徒の登校はありませんでした。
 でも、お昼休みになると必ず2,3人の生徒が「先生これ食べて下さい」と、杏(あんず)や葡萄(ぶどう)、ふかしたジャガイモなどを持って慰問に来てくれました。私共も産報特配のタバコ(これはお父さんに)やチョコレートなどをお返ししました。
 田舎の女学生は実に純真で、たった2ヶ月足らずの師弟関係だったにも関わらずよくなつき、お国のためだと頑張ってくれました。
 整理も一段落したので私たち社員は一旦自宅に戻り、次の命令を待つことに なりました。間もなく、会社からは会社解散の通知と僅かばかりの退職金が送られてきました。

【浪人生活】
 社会人となって十数年、営々と稼いで残した僅かばかりの財産や家財道具も すっかり無くし、丸裸のまま私は故郷の生家に帰りました。
 でも両親や妻は命さえ有れば、道は自然に開けると慰め、喜んでくれました。私は毎朝、砂浜に塩水を撒いて僅かの塩を得て、米との物交に当てての生活が続くのですが、その模様は本題を外れますのでここで止めます。

【おわりに】
 くだらない思い出をだらだらと打っているうちに、つい沢山のページになってしまいました。皆さんにさぞご迷惑をおかけしたことと思います。
どうか年寄りの「ごどう話し」とお聞き流し下さい。中山 俊雄

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