磨伊 純聰
月に2回しかない休日前の夜勤あけ15日は、朝早く工場から退場し帰宅早々鮎漁の準備を級友T君の家ではじめていた。 釣りはまだるっこいと一網打尽の追い込み網で、一度はやってみたいと前から二人で企んでいた漁法「てんから網漁」である。
重大放送があるらしいと聞かされたが、級友W君にあとで聞かせてくれと頼み10時ころ家を出発し、二、三年前までは釣り人で賑わっていた魚場へと向かった。 雲一つない快晴であった。 戦争へ大人の男たちはすべて狩り出され、釣り人の姿は全くなくわたしら中学生二人の独壇場、腰まで水につかり網に追い込む。 昼過ぎまでには、150匹くらいの大漁であった。
W君が橋上で「オーイ! 日本が負けたぞ!」と叫びながら、わたしたち二人を迎えにきた。 敗戦の悲しみよりも「もう工場へ行かなくてもよい」という、一瞬ほっとした感情が先だった中学三年生真夏の昼下がりであった。
米英と開戦したとき、小学校の担任T先生が、自動車の普及度の差を例にしながら、日本がこの近代戦争に勝てるわけがないと、声を低くし言っていたことが脳裏をかすめた。
戦争末期のころは、工場の一隅で、わたしども学徒にまで、引っ張ってくるリヤカーに、縄と木屑の手作り擬似爆弾を抱えさせて飛び込む対戦車戦演習。
一方、外に出れば、わたしども中学生の憧れ四高の学生帽そのままで、旧式村田銃を担ぎ、わらじを履いて行進する敗残兵さながらの新兵たちの姿。(文系高校生が軍に召集されたのだ。)
これらは、夏の盛りだというのに寒々とした光景であった。 「T先生の言った通りだ!これではやはり負けたんだ!」と今更の如く実感していた。
そして、紛れもない「敗戦」なのに、政府は「終戦」と50年間言い張っていることが、わたしにはいまだに不可解なままでもある。
戦時下だったとはいえ、わたしらの年代には中学一年生を大人扱いする教育に、まず戸惑いと驚きを隠せ得なかった。
軍服まがいの制服と地下足袋にゲートルの出で立ちでまず家を出る。 途中から学友や先輩と隊列を組み、校門の前では号令一下歩調を取り、着剣した五年生の歩哨に敬礼し入門していた。 しかし当時の中学教師は、やや高踏的でしかも少々世俗とかけ離れた存在のように見え、気骨のある先生方が多かったのが救いでもあった。
中学二年二学期後半から、校舎での学業を放り出し、横浜から紡績工場へ疎開してきた「ゼロ戦搭載エンジン製作工場」へ学徒動員として出動した。 ところがこの工場のなかで、米英の国旗を踏ませたり、ルーズベルト、チャーチルやトルーマン人形の顔を殴らせたりする軍事教練のさなか、強い信念を持った英語教師は毎週英語の授業をおこない、副読本まで読ませる始末。 しかし、はじめは2時間くらいの授業がおこなわれたが、敗戦直前にはまったくなくなってしまい、配属将校の天下と化した。
当初、設計部門に配置され、中学二年生ではまったく役に立たなかったが、ここで美人トレーサーに囲まれた設計技師の格好よさにすっかり憧れ、わが生涯の進路機械工学専攻へのしくじりの始まりでもあった。
敗戦後、しばらく自宅待機があり、新聞紙に印刷されたアメリカ軍検閲済みの教科書で、遅まきながら学業が再開された。 当然とはいえ、学力低下は極限に達していた。