私の8月15日
前沢宣治

MLの皆さん
 暑い日が続いていますが、夏バテなどなさっておられませんでしょうか。
 毎日車の騒音と油蝉のけたたましい鳴き声にうんざりしています。
 8月15日が近づいてきました。木会長のご提案により多くの方が貴重な体験を書 いておられます。会員の皆さんの中には生死をかけた鮮烈な体験をなさっておられるにもかかわらず、 過酷な体験ゆえに口少なく語っておられるのに比し、たいした体験も無く長々と個人 的な駄文を綴ることに対し、忸怩たる思いがありますがご寛恕ください。 前置きが長くなりましたが、そんな訳で私は敗戦を挟んでの自身の思い出を断片的に 書いてみたいと思います。

(1)はじめに
 「コンピューターおばあちゃんの会」にならって、陽だまりでも「私の8月15日」を 記録しようと、木会長が提唱されたのは昨年8月のことでした。会長の案に賛同さ れた会員の方々からは、既にかなりの意見がメールの形で発表されています。
 私も書かねばと思いながらも、会長の提案の中に「来年の8月15日までに…」という お言葉があったのを言い訳に、生来の怠け根性で今に持ち越してきました。
 実は私が書き渋っていたのには、もう一つ理由がありました。それはテーマである 「8月15日」という日が、私の個人的な記憶の中では全く記憶に残っていないからでし た。これについて、いろいろ考えて見ましたが、どうも明確な理由がわかりません。 小学校(当時は国民学校)3年で、あまり社会的関心を持たない凡庸 な子供だったためではなかったかと思います。

 同世代の作家、大江健三郎の作品の中には彼が体験した戦時教育や敗戦の日の出来事 が鮮明に書かれております。また、私たちより数年年長の作家妹尾河童も「少年H」 の中で、同じ体験を実にリアルに表現しているのです。彼らの作品に描かれた事柄 で、私の体験と重なり合うことも多いのですが、肝心の「8月15日」当日は、私の中 からすっぽりと抜けているのです。

  (2)徐州へ
敗戦前  私は父の仕事の関係で、小学校に入学して直ぐに支那(今の中国)の徐州市の小学 校に転校しました。なぜ転校したのか、どのルートを通っていったのか、はっきりと は分かりません。しかし、何日も何日も汽車に乗っているので、子供心にいつになっ たら着くのだろうと、不安と退屈になったことを憶えています。
 転校した徐州市立小学校は、私にとって生まれて初て見る鉄筋校舎の学校で、生徒 たちは「僕」「君」と呼び合う「ハイカラ」(?)な雰囲気があり、田舎坊主にとっ ては、本当にとまどう毎日でした。在学中の思い出はいろいろありますが今は割愛 し、帰ってくる時のことで、強くに記憶の中に焼きついていることがあります。

 その頃次第に戦局が悪化し、支那から引き揚げなければならないという状況になっ たのです。
 ある晩眠りからふと目覚めた私の耳に、父と母がひそひそ声で話している音が聞こ えてきました。夢うつつであった私の耳に聞こえたのは、父が話す「敵の潜水艦に攻 撃されれば、関門海峡を無事に渡れるかどうか分からん。」という言葉でした。子 供の私にとって、それがどんなに恐ろしいことかよく理解できませんでしたが、「あ あ、日本に帰らなければいけないのだな。」ということは分かりました。
 こうして私たち一家は、日本に帰ることになりました。帰るとき、ある駅で汽車に 乗る前に、どういう訳か両親が、私と二つ下の弟を見知らぬ人に預けて、なにか用を 足すために私たちから離れたことがありました。

 この時の胸の張り裂けるような不安な気持ちは今でも忘れられません。今考える と、親から離れた時に感じる子供の一般的な心細い心理だったのでしょう。
 後年中国の戦争孤児の人たちが生き別れになった親を求めて続々と訪日し、その悲 痛な体験を語りかけました。私はその人たちの話を聞き人事とは思われず、思わず目 頭が熱くなるのを抑えられませんでした。我が家ももう少し遅かったら、あの人たち と同じ運命だったのだ…。
 幸い私たち一家は、無事帰国できました。

 帰国したのは、昭和20年の1月だったと思います。数年間日本を離れていた私は、 すっかり故郷を忘れていました。その年は大雪で、久しぶりで帰りついた我が家の玄 関は、雪の中に埋もれていました。雪の階段を下りて玄関を入るとき、暗い穴倉の中 に入って行くようだったのを憶えています。故郷に祖母と一緒に残っていた姉たちが 自分のことを「おれ」と、男のような言葉遣いで話すのも珍しく感じられました。

(3)帰国
 再び母校の小学校に入学したわけですが、戦争と関わる記憶はあまり多くありませ ん。
 勉強の方はあまり憶えていませんが、みんなで「お墓山」に行って、飛行機の油にす るという「松根油」を取るために、のこぎりや鎌などを持って松の木肌に筋目を入れ ました。また、学校の裏山に行って開墾し、サツマイモを植えたりしました。
 一週間に一度全校朝礼があり、その時には年配の教師が体育館の壇上で、大声で訳 のわからない歌を朗誦しました。その意味が全く理解できず、なんだか同じ音が続く のが変な感じで、妙に印象に残りました。後になって、これが明治天皇の御製で「朝 ぼらけ澄み渡りたる大空の…」という歌であることが分かり、思わず苦笑いたしまし た。子供の記憶では、どんな名歌でもとんでもないものに変身してしまうのですね。

 これは敗戦前か後かはっきりしませんが、当時の食糧事情に関わる記憶として挙げ ておきます。
 敗戦前後の食糧事情の悪化は当然のことですが、都市部に比べ農村部では食糧の生産地で すから、さほど米に困るということは無かったようです。ただ、調味料や魚肉などは なかなか口に出来なかったのです。我が家でもサツマイモの蔓を取って雑炊の中に入 れ食べました。砂糖が不足していたため母がサツマイモを煮詰めて飴を作ってくれま した。それを箸に巻きつけてなめるのが楽しみでした。

 ある時私たちガキ大将仲間が、家の裏の草原で遊んでいたとき、誰かがしま蛇を見 つけ、皆で皮をはいで焚き火で焼いて食べました。蛇はよく「山にしん」など と言われますが、本当にニシンそっくりでした。おやつに飢えていた私たちは、畑の ナスやきゅうり等もよく齧りました。旺盛な食欲を満たすために、食べられるものは 何でも口にしたのです。
 個人差はあっても、私たちの年代のものが現代っ子に比べて比較的耐久力に勝って いるのは、こうしたことが遠因ではないかと勝手に思い込んでいます。

(4)敗戦後のきれぎれの記憶
 敗戦後  戦争に負けた日本に、戦勝国のアメリカ人がやってきました。いわゆる進駐軍で す。  ある日私たちの村役場にも、その進駐軍が現れたのです。その日私たちが役場の庭 で「パッチ」をして遊んでいると、一台のジープがさっと乗りつけ、車から2,3人の アメリカ兵が降りたのです。わが村の村長(この村長はなかなかの大物で、わが出身 高校の校歌を作曲したり、県の市町村議会の長などをした人であることを後で知りま した。)が、つかつかと玄関先に出迎え、両手を広げてアメリカ兵にぺらぺらと何か 話し掛けました。それを見て私たちは皆、呆気に取られました。アメリカ兵に対しなんら臆する所の無い村長の姿が、子供な がら格好よく見えたのです。

 これも当時どこにでもあった光景ですが、不衛生な環境からくるノミや虱の発生 を、DDTを振りかけて予防させられました。今考えると、ノミ、虱以上に人間への害が 心配になりますが、当時そんな配慮がなされる訳がありません。喜び勇んで体中を 真っ白にしてもらったものです。

 それから食糧事情が悪かったり、裸足で外を出歩くことが多かったせいか、回虫保 有率が高く、その駆除にひまし油を下剤として飲まされました。学校の近くの松林の 中に穴を掘り、そこで用足しをさせられたりしました。GHQの日本国民に対する啓蒙は 強引な面が沢山あったようですが、全体としてみるとかなり友好的であったといえるのかもし れません。

 学校生活の面では、あまり具体的な事柄は覚えていませんが、小学校の高学年頃で しょうか、教科書の一部が墨で真っ黒に塗りつぶされていた記憶があります。
 中学校では「Jack and Betty」という英語の本や分厚い上下二冊の「民主 主義」という教科書を持たされ、新しい民主主義の精神を教えられました。先生方 の中には戦争から帰還して勤めた人もいて、なんとなく怖い印象の先生もおられまし たが、今から思うと相対的に学校に一種の活気のようなものが溢れていたような気がいたします。
 まだ現在のような明確なカリキュラムが形成されてなかったのでしょうか、小学校 か中学校の時かはっきりしませんが、全校で、指で太い5寸釘を曲げる力を持った男 の芸や、真冬でも上半身裸で過ごしているという男の講演を聴いたりした記憶が残っ ています。厳しい軍国主義教育の締め付けが終わり、その反動として転換期のどこか おおらか(悪く言えば、大雑把)な遊びの精神のようなものがあったのかもしれませ ん。

 以上思いつくままに、「8月15日」を挟んだ私の戦争体験のようなものを書き並べ てみました。私より数年早く生まれたために、第二次大戦の犠牲になられた方々が大 勢おられます。幸い私たちは、新時代の教育を受け今日まで曲がりなりにも平和の時 代を生きて来れました。
 取り立てて平和であると感じず、平和に倦んでいる感のする今こそ、私たちはもう 一度あの敗戦直後の苦しかった状況を思い起こし、平和の尊さを噛みしめてみたいと思います。

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