私の8月15日
松崎貴美子

 松崎です。
 10日のメールにも触れましたが、私は戦争体験といえるものは、あまりないのです。皆様のご参考にはならないかもしれませんが、当時を思い出してまとめてみました。

 昭和19年暮れ近く、一家の生活を支えていた母が急死しました。脳溢血という、あっという間の他界でした。残されたのは、三才下の弟、私、三才上の兄、十才上の姉、祖母、リュウマチで体の不自由な父でした。
 その頃、私たちは、北海道室蘭市に住んでいました。当時室蘭は日鋼室蘭と呼ばれ、海岸近くに日本製鋼所室蘭製作所の、大きな建物があって、熔鉱炉の炎が夜空を赤く染めていました。ふるさとを思い出す時に、まず浮かんでくる情景です。

  「カンポウシャゲキ」という言葉をよく耳にしました。具体的に良くは判りませんでしたが、室蘭にもその「カンポウシャゲキ」が近づいているのだろうかという、不安めいた気配は感じることが出来ました。

 頼るべき男手の兄三人が出征していました。その中の二番目の兄が住友石炭の社員であったことから、室蘭も危ないかもしれないからということで、翌年、幾春別町の兄の社宅へ疎開をかねて、移住することになりました。家や店は空家のままにしたようで、子供の私は何も聞かされず、級友との一言の別れもない転校でした。国民学校4年生の終わりでした。

 新しく入ったクラスに、朝鮮人の女の子が一人いました。炭鉱には朝鮮人の労働者が沢山入っていたようです。目立たず、ひっそりと自分の席に座っていて、時々顔を振り向けると、いつも笑いかけてきました。朝鮮人の子と同じクラスなんて初めての経験でしたが、本能的に優位性を感じました。差別してはいけないのだとの意識はあって、意地悪はしなかったけれど、優しい言葉をかけることもありませんでした。

 終戦布告の後、その子は少し明るくなって、背筋が伸びたように感じました。私はやはりどう接していいか分からずにいるうち、いつのまにか教室から姿が消えていました。何日か後に一度道ですれ違った時、その子は笑いませんでした。むしろ怖い顔で私を見ました。教室では見せたことのない態度でした。子供心に、日本の敗戦の現実を実感した瞬間といえます。

 夏に入って、時々遠くの空に花火のはぜるような音を聞きましたが、炭鉱街は妙に静かでした。登校の際には防空ずきんを肩から下げて、非常食として煎り米とか、煎り豆とかの入った小袋を身につけることが義務付けられていました。大人が、ピカドンが落ちたというようなことを話していたのも、この頃だったと思います。それがどんなに恐ろしいものであるかなど、分かりようがありませんでした。「一億総玉砕」そんな言葉を聞いたのはいつ頃だったか、定かではありません。

 8月15日、学校は正午前に終わりました。家に帰るとラジオの前に、姉たちが(嫁いでいた姉も、幼子を連れて、一緒に暮らしていました)厳しい顔をして座っていました。そして私を見るといいました。「日本は戦争に負けたんだよ。」

 そうなの。日本は戦争に負けたの。神国日本は負けないといっていたのに。そんなことを思いました。しかし、特に悲しくもなく、悔しさがこみ上げるでもなく、これから日本はどうなるのだろうとか、自分たちの暮らしはどう変わるのだろうとか、そういった深い考えも浮かんできませんでした。日本は戦争に負けたんだ。そのことだけが頭の中で繰り返えされていたように思います

 幸い長く待たないうちに二番目の兄が復員してきました。内地勤務だった兄の 隊が出撃のため外地へ向かおうとしていた時に、終戦になったとのことで、幸運 だったとしかいいようがありません。女,子供、年寄り、病人の家を守っていた 姉たちも、どれほど安心したことでしょう。10日分として配給されたお米を10の 袋に分けると、1日分はほんのわずか。大根ご飯と称するものは、細かく刻んだ 大根の隙間から米粒が顔を覗かせているといった代物でした。祖母が浴衣を崩 しておむつに縫い上げ、それを抱えて見知らぬ農家へ買出しに出たこともありま した。子供連れの方がいいということで、私も学校を休んで一緒に歩いたのでした。

 この年の出来事の一つに、おそらく強制的に連れて来られたと思われる朝鮮人 労働者のことがありました。その人たちが抑圧から解放されて暴動を起こすこと を、会社側は非常に警戒していたようです。一時、不穏な空気が流れました。そし て自国へ送り返すことになり、私の兄も警棒を持って輸送に当たりました。緊迫感 のみなぎった表情で出て行きましたが、大事に至らずに済んで良かったと、後年 思ったものです。

 学校では先生が黒板に「民主主義」と書いて、これからは民主主義の世の中に なります、と教えました。言葉と漢字はすぐ覚えましたが、中身が分かったのは、 ずっと後のことです。
 ある日、昭和天皇の写真が商業新聞に載りました。姉が指差して「民主主義だ よ。」と、やや興奮気味に叫ぶようにいいました。其処には、昭和天皇が普段着で 新聞を見ており,その傍らに少年だった現天皇が脇から覗き込んでいる、何処に でもみられる父子の姿がありました。
 現神人であり、雲上に奉られていた天皇でした。「天皇陛下万歳」と叫んで散って いった兵隊さんのお話を、学校で聞かされたこともありました。これがその天皇な の。私は珍しいものを見るように、しばらく見入りました。世の中が大きく変化して いるのを感じました。

 やがて教育制度は6・3・3・制と変わり、私は新制中学1年生となったのでした。(終)

 以上、内容に乏しいのですが、三回に分けて送らせて頂きました。 陽だまりでの「8月15日」の企画が無ければ、一つの文章にまとめることもなか ったかもしれません。 半世紀を経た今でも、当時の事はセピア色に褪せてはおりませんでした。

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