私の8月15日
村山 隆

 NET陽だまりの皆様、今日は。
 あの日 「8月15日」 私は 国民小学校二年生でした。
朝からジリジリ照りで! 暑く 長い 一日でした。
家族の誰か(姉?)が、正午のラジオ ニュースで大切な放送があるから、 必ず聞く様にと言われて来ました。

 我が家の、五球スーパーラジオは、日頃から、電波の調子が良くなく、 「ガーガーピーピー」 と言葉など聞き取れない代物、(要は、古くなったため) 更に、数日前に米軍機が電波妨害の為に飛ばした錫箔が、アチコチの高い木の 梢でキラキラと光って居るのも、一因か?(注@)

 それでも全員、ラジオの前で耳を澄ませ、待っていた。 何時もの様な「ガーガーピーピー」の中にも「昭和天皇の玉音」が聞こえてきました。
 「朕、コウソコウソウ…??」、小学二年生の私には、もし聞こえたとしても、 その意味は、理解出来なかったと思います。
 大人達も、解ったのかどうか、誰かが「変だぞ」と言い、三々五々と何処かに行ってしまいました。

 夕方、『日本は負け、無条件降伏をした』と聞かされました。
皆はソワソワと浮かぬ素振りで、「今後は、何をどうするか等は徐々に分かる」「取りあえず、敵に見られて困る物を隠せ」と、どこかから指示があったようでした。
 母は「皇国婦人隊」で、練習に使用していた「竹槍」を燃しました。

 以前に「皇国の軍隊は、絶対に負けない」「もし日本が負ける様な事が あったら《一億 総自害》」と聞かされたのを思い出し、少し不安になりました。 しかし、どこを見ても、そんな気配などは無く、何となく安堵しました。

 「日本が負けた」と聞いた時、なぜか一ヶ月ほど前のことが脳裏に浮かびました。
 全校朝礼で、校長先生の隣りに高等科二年のIさんが、カーキ色の軍服を着、 帽子をかぶり足に巻脚絆を付けて立っていました。
 校長先生がI君はお国の為に、○○幼年隊に入隊する。皆も、I君の 武勲を祈ろう」。続いて本人の挨拶。続いての「万歳!万歳!」に送られ、I君は 消えて行きました。 (現在は、Iさんは、ご夫妻で稲作に頑張っている)

 何日かして臨時登校があり、何を指示されたか 殆ど記憶はありません。  ただ、夏休みの宿題(?)に低学年は「ワラビの穂虎」を乾燥させた物で、五百匁を 供出!既に採取した者があればそれを、持って来ても良いということでした(注A)
 私も、山で採ってきた物を持って行きました。(大部分は、母が用意してくれた物)  そして秋のある日、皆にそれで作った「乾パン」十個ずつが、支給されました。
大切に持ち帰り、家族、皆で楽しく味わいました。(注B)

 さて はて!
 こんな事を、語っても、まともに聞いてもらえるのは、どの年代の頃までの人でしょうか?
 子供の頃、母に連れられて、母の実家を訪れた頃の事が思い出されます。
 明治初期生まれのお婆さんが、「明治維新直後の事だよ」と言って、淡々と語ってくれました。 子供ながらも、半信半疑で聞いていました。現在の私達が、テレビで「未開発国や 開発途上国」の様子を見る様な事ばかり。余り信じ度くないことばかり。

 私達の子孫はどんな風に感じてくれる事でしょうか。
      

  注@
 電波妨害 終戦の直前頃、幅10p位の錫泊(長さ1メートル位)を米軍機がばらまいたものです。(今のアルミ箔テープの様な物)各町内の警防団の人が、いち早く取り除いたが、高い木の梢に取り残しが、キラキラと光っていました。

注A
 ワラビの穂虎 皆様が採る、ゼンマイ、ワラビは春一番に、芽吹いた柔らかい新芽を採取します。それが、7〜8月頃ともなると、茎は硬く葉は大きく下草を覆います。とても食用になるとは思えない物です。これを乾燥し、製粉して小麦粉などと混ぜ、戦地に送る乾パン等を作っていたのではないかと思います。

注B
 乾パン 支給された乾パンは麻雀のパイ位の大きさで、焦げ茶色、硬く、現在の私など、歯が立ちそうにない物でした。味は、思い出せませんが初めて手にした「乾パン」なるもの、楽しく味わったのを思い出しました。

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