篠 田 睦 子
学徒動員としての軍衣作り
昭和18年、戦況は一段と不利になってきた。ガダルカナル島兵士の玉砕、山本五十六元帥戦死等の報道、戦局は一段と厳しさを増してきた。
翌19年、私は国民学校終了、女学校へと進学させてもらった。敵機の襲来に備え、学校も家庭も防火演習が盛んに行われ、夜は灯火管制がしかれていた。徴兵年齢も18歳に引き下げられ、学徒は、軍需工場へと動員されていった。私達の学校では,校舎の一部が被服省の「軍衣縫製工場」に指定され、兵士の軍服(上着)作りを行なっていた。既に上級生は、三角布、マスク、エプロンをかけ、きりっとした作業姿勢が印象的であった。
私達も、二学期頃かと思うが、ボタン付けの作業が開始された。英語の授業が廃止された。家庭科の授業も短縮され、そんな中での作業であった。一見単純で楽そうに見受けられるこの作業、かなり指先に力がかかった。太い針、糸、皮の指抜を当て、一着づつ仕上げていった。ある日私は10着目ついに針を滑らせ,左の人差し指を刺してしまった。教室にばんそう膏が常備されており、大事に至らなかったが、そんな心遣いがありがたかった。上級生が裁断、ミシン掛け、穴かがり,私達がボタン付け、仕上げは上級生へと、一貫作業であった。そこには「一刻も早く戦地へ届けて欲しい。輸送船が敵機で沈没することのないように・・・兵隊さん有難う。」そんな乙女達の祈りがあった。
昭和20年、戦況は一段と厳しさを増していった。B29が本土上空にやって来て、東京を始め大都市が空襲され、8月1日長岡も焦土と化した。広島、長崎に新型爆弾が投下され、新潟も不安感の日々が続いた。
8月15日ついに終戦、私はこの時父の里で過ごしていた。翌日近所の方からこの知らせを聞いた。ラジオもなく「玉音放送」も聞けなかった。唯、呆然として泣いていたように思う。何のための戦争であったのか。「欲しがりません勝つまでは」、「日本は精神力で勝てる」、そんな教育下であったかと、思う。
戦後、国土は荒れ、衣食住の深刻化する中で軍服は、国からの払い出し物資として家庭に配給された。街角には、軍服姿の男性がかなり多く見受けられたように思う。
今年は、第56回目の終戦記念日を迎えるが、平和な生活が送れることを感謝し、犠牲者の霊に心からの冥福を祈って止まない。
(私の父は警察官であり、日華事変に参加した。帰還後も警官として銃後の治安に勤め、昭和19 年末殉職した。終戦は翌年であった。)