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記録−新潟県中越地震の体験

平成16年(2004年)10月23日午後5時56分〜

NET・陽だまり メーリングリストの書き込みを中心として…

私たちNET・陽だまりの会員は基本的に「柏崎市及び近隣に居住し…」(注:会則から)が条件となっています。
新潟県中越地震の震源から30Kmほど離れており、震源に近い地域から比較すると被害が小さいのですが、本震に続く余震と時間が経つに従い、行動範囲の小さい高齢者にも見えなかった被害が目に付くようになり、地震の大きさを思い知らされています。
ここに会員が体験したり感じたり行動した記録を、NET・陽だまりのメーリングリストに書き込まれたメールを中心として、本人の了解を得てまとめてみました。また「写真情報」に「私たちの見た中越地震」及び「私たちの見た中越地震(2)」そして「歴史」の項に「柏崎の新潟県中越地震」を載せてあります。何かの参考になれば幸いです。

Date: Sat, 23 Oct 2004 21:43:07 +0900
From: 松崎 貴美子 埼玉県在住の準会員からの第一信。しかし、柏崎市は全域停電。

Subject: 地震お見舞い申し上げます

松崎です。
今日夕方、かなり強い揺れを体感しました。しかし我が家では物が倒れたり棚から落ちたりといったことはありませんでした。
テレビを入れてみますと、なんと中越地方が震源地で、柏崎は市全域が停電とのニュースです。
それでも柏崎原発には異常がなく運転しているとのことでしたので、幾らかほっとしました。
小千谷方面に被害が多発しているようですが、皆様にはお怪我や家屋の被害はありませんでしたか。お見舞い申し上げます。
22年間柏崎に住んでおりましたけれど、このような大きな地震には一度も会わなかったので、本当に驚いています。
早く送電が再開されると良いですね。余震が続くようですので、くれぐれもお気をつけください。

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 松崎 貴美子
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Sent: Sunday, October 24, 2004 8:43 AM
From: "小竹 進"  翌朝停電は復旧したがプロバイダのトラブルでメールの送受ができない。とりあえずWebメールで…

Subject: 地震の被害はありませんか

昨日ソフィアセンターで写真情報の「工業メッセ」を間瀬さん の作ったものに、掲載してある私のものの一部を付け加えて差し替えて帰って来ました。
閉館間近に色々やったので間違いが無いか確かめようと思って、PCを立ち上げたところへドスン!です。
キャスターつきの椅子はがたがた動くし、ディスプレイは踊っているし、パソコンの終了手続きをする間もなく停電。
今やっと電気が来ている事が判り、インターネットにアクセスしてみましたが、メールはパスワードを認証できず通じません。このメールはWebメールで送っています。
私の今判っている被害は、上に置いたものが落ちたり、立てかけてあったものが倒れた程度です。
本震直後うちのかみさんは近所の人と近くの空き地に避難していました。
皆さんは如何でしたでしょうか。

2004/10/24
******* 小竹 進 Odake Susumu *********

Date: Sun, 24 Oct 2004 09:22:33 +0900
From: 深田 厚 A.Fukada 静岡県在住の準会員から…(準会員:会員が遠隔地へ転居後引き続き会員資格を継続出来ます。)

Subject: 地震お見舞い

深田 です。
◎地震お見舞い申し上げます。突然の大きな地震 小竹幹事長のMAILによりますと柏崎は大きな被害が無かったものと思われます。段々小千谷市中心の様子が判って来ましたが被害が甚大です。
当静岡地方の小生宅でも電灯が大きく揺れました。
先程から知り合いにTELしていますがかかり難くなっているとのアナウンスでつながりません。
 早く立ち直って元の生活に戻られる様お祈り申し上げます。

******************
〒4370041 静岡県袋井市
  深 田  厚
******************

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Date: Sun, 24 Oct 2004 10:20:27 +0900
From: 今井 清  その時は町内の集会場で宴会の最中。

Subject: 地震の様子

今井です。

松崎様。深田様、早々の地震見舞いありがとうございます。

昨夜は町内の同好会で2ヶ月に1回の飲み会を町内の集会場で5時半から始めていました。
ビールで始まり、そろそろ酒に切り替えようとしていた時、ぐら〜グラ・・・と来ました。木造の2階は今にも倒れるかと感じました。火の始末をして宴席はそのままで家に帰りましたがどの家の人も外に出ており、第2、第3の余震を受けていました。
今回の地震は余震が本震のレベルと同じものが3回もあり異様な感じで一晩過ごすました。
柏崎市はすぐさま災害対策本部を設置し、防災無線で情報の伝達を流しておりましたが、放送が余りに頻発で音量を下げて就寝しました。

我が家の被害は飾り戸棚のガラス戸が壊れ、中にあった小生の現役時代の遺物が床に散乱したり(添付)、テレビの上に飾ってあったものなどがほとんど床に落ちました。

このメールを書いている9時半前から10時過ぎまでに2回の余震がありました。楽観はできないようです。

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     今 井  清
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Date: Sun, 24 Oct 2004 12:35:13 +0900
From: 吉田 高志 ここまでの通信はサーバーのトラブルで「KISNET」のユーザーには届きませんでした。

Subject: 地震の後遺症

MLの皆さん   吉田です。

 皆さんに直接的な被害はなかったかと思い巡らしています。お陰さまで我が家は、大きな被害はなく今日午前中でライフラインも完全復帰して一段落です。昨日は携帯も機能せず通信手段を奪われ、孤立した感じで改めて災害の怖さを知らされました。情報は2台のラジオ(AM、FMピッカラ)をつけっぱなしで、屋外待機を強いられ夕食も取り上げられ散々でした。

 添付は我が家の庭の灯篭の倒壊と近所の神社の塀の倒壊の写真です。この巻き沿いにならなくて良かったと思っています。

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     吉  田  高  志
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Date: Sun, 24 Oct 2004 14:06:30 +0900
From: 三井田 徳之助  町内会長に民生委員など忙しい人です。個人的な通信。これ以上の被害が無かった事が判ります。

Subject: Re: 地震の被害はありませんか

石灯篭が2基倒れました。ミイダ。

Date: Sun, 24 Oct 2004 16:56:06 +0900
From: 小竹 進 本震後23時間経ってようやく「私たちに出来ることは?」と考えます。

Subject: 地震の記録の提案

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  小竹です。

未だ避難所が15箇所開設されている状態で生活が落ち着きませんが、生涯に再び訪れることは無いと思われる「中越地震の記録」を残すことを提案いたします。

一つは「写真情報」として、もう一つは「体験の記録」として「8月15日」のような形としてはいかがかと思います。

そのためには身近な被害状況の写真と説明文書、体験記録を時間の経たないうちに用意する必要があります。

ご意見をお願いします。

2004/10/24(日) 16:55:57 ******* 小竹 進 Odake Susumu *******
     陽だまりへ すてきな笑顔に あいたくて

Date: Sun, 24 Oct 2004 18:17:30 +0900
From: 植木務・田麦 柏崎市と山の尾根で隣接している大島村在住の会員。阪神大震災を体験しておられます。

Subject: 田麦より041024

 地震メール有難う御座います。 私共無事です。家の建屋も被害ナシです。裏山の崩落もありませんでした。 何度もメールを戴いたり、電話を戴いたり、有難う御座います。

 最初の時、異様な揺れに仰天しました。正直心底から怖かったです。 柱がギシギシいっている間は、天井ばかり見て動けませんでした。 何時この揺れが止むのかと怖いでした。 恐怖に直面している間は、「適切な判断も迅速な行動」も出来ませんでした。 あの時、もし屋根が落ちたら、多分・・・・。当事者は皆そうだろうと感じました。

 余震の度に、心臓がキューンとなりました。 夜半には余震も小さく少なくなりました。

 被害の大きかった地域の方々を思いやられます。 度重なる台風被災の方々もまだ困窮の最中でしょう。 新潟県知事は就任直後です。大儀な初仕事です。夫々の職場の方々の大儀も然り。 「忘れた頃にやってくる」災難は、何時誰を直撃するか解りません。
 この「教訓」をまた痛感させられました。

 「阪神」の時は寝ている時でしたので、「一瞬の恐怖の時間」はありませんでした。 「阪神」は飛起きた直後からの「体験」でしたが、余震の恐怖や、転居を繰り返した(2ケ月で4度)等の、あの体験はもういりません。

 昨夜地震直前から、今日の日暮れ前まで、県と村のイヴェントの「世話役」でした。 この地震にも拘らず、問題を孕みながらも、「決行」されました。 不在にしていましたが先程、家内と私と帰宅しました。メール拝見遅れ済みません。 取り合えず、無事のお知らせと、お気遣いを御礼申し上げます。

** 植木  務 **

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Date: Sun, 24 Oct 2004 21:05:38 +0900
From: 中澤  功 昔アマチュア無線で使っていたのかパソコンに使っていたのか、無停電電源装置を電話機に接続。

Subject: 地震、お見舞い申し上げます

今晩は
NET・陽だまり「中澤 功」です。
昨日の夕方から、すごい地震がありましたね。
被害の遭われた方にはお見舞い申し上げます。

私は、二階で適当に作業していましたら、地震がきて、それも、だんだん大きな揺れとなって驚きました。

納まるまで廊下の柱にしがみついていました。
暗かったので、昨日は外に出ず、今日出てみましたら、屋敷内は異常無いようなのですが、町内を歩いてみましたら、何個所か、地割れあったりして、通行止めになったりパイロンで表示してあったりしました。
改めて、今回の地震の大きさを知りました。

昨夜は電気が消えた為、テレビは見られずたまたま、UPS(注:無停電電源装置)の電源が少し残っていましたので、それで1時間に1回(五分位)ラジオを聞いて情報を入手していました。
もう一つ誤算:家のFAX兼用電話は商用電源がないと、使えないことが分かりました。
停電しているとき何回受話器を取っても無音なので、回線が混んでいるものと思っていましたら、UPSに接続しましたら、局線に接続したときの「つー」という音が聞こえました。
UPSの電源がなくならないか気にしながら、取り敢えずの連絡を終りました。

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中澤  功
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Date: Sun, 24 Oct 2004 22:02:12 +0900
From: 小山登志雄 KISNETは柏崎へインターネットを最初に導入したプロバイダ。メールサーバーの復旧に時間がかかった。

Subject: Re: KISNETが開通

こんばんは。小山です。
昨晩の地震にはびっくりしました。
「運は天にまかせて寝る」と10時ころ布団に入ったものの、ときどき余震がくるので夜中の2時ころまで寝付かれませんでした。
今朝6時に起きて外を見たら街灯が点いているので、有り難うとブレーカーを入れました。

いちいち電話するのも面倒と、無事の知らせを書いてメールで送ろうとしたら、また先日と同じで送れないので、またもkisnetに接続の再設定(とはいっても確認だけですが)してみたが今度はダメでした。

これはこちらのせいじゃないとあきらめて午後の3時過ぎに電源を入れてみたら接続できました。ただし、朝のメールは無駄になりました。

さっきメールを開いたらkisnetからのお詫びと復旧のお知らせが入っていました。

数多くやってきた台風の被害とともに今回の地震の被害、大自然の力の前では人間は小さいものだと痛感しました。謙虚な気持ちになります。

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  小山登志雄
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Date: Sun, 24 Oct 2004 22:17:46 +0900
From: 大岡 洋子 東京都在住の準会員

Subject: Re: 地震の様子

NET・陽だまりの皆様

 大岡です。柏崎はきょうも停電というニュースが流れていたので、電話もメールもだめだなとあきらめていたところ、今受信メールを開いてみたら、びっくり。皆様ご無事のことと、デジカメによる記録への取り組みなど、様々な被害をものともせず、前向きなNET・陽だまりの方々の《NET・陽だまり魂》に、その意気軒昂なお姿に圧倒されました。

 メールで詳しく情報を伝えて下さり、ありがとうございました。少しほっといたしました。テレビで刈羽郡病院が映り沢山の方がけがをされたようでしたが、皆様(といってもメールを下さった方々だけしかわかりませんが)ご無事で本当によかったですね。大事な灯篭が倒れて、立て直すのにさぞ骨がおれるでしょうし、大事なお宝の陶器などがこわれて、さぞがっかりされていらっしゃるかたもおられることとお察し申してしていますが、パソコンと御身体がご健在でなによりです。

 主人は元、建設省建築研究所で地震防災官という職務についていたので、長年のくせで昨日からテレビにかじりついて被害状況を分析しており、被害地に行けないことを残念がっております。柏崎について皆様からのメールの情報をいただき喜んでおります。

………………中略……………………

 緊急事態の折、長々と失礼いたしました。どうぞお体にお気をつけて、もとの静かな柏崎に早く復帰されますように切にお祈り申し上げます。

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  大岡
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Date: Mon, 25 Oct 2004 10:53:15 +0900
From: 高木 正幹 市内で宴会中に地震。東京の自宅へ帰られない。

Subject: Re:我が家の地震の状況

米山台から高木です。

前沢さんなど地震の被害があった皆さんにお見舞い申し上げます。

私は23日夕方17:30頃から産業文化会館2階で原 益夫後援会の会合に出席しました。メインテーブルでお酒を飲んでいたら大揺れの地震に遭遇しました。
同時に停電しましたが常夜灯に切り替わったのでお酒を飲みなおしていましたが「蓄電池が切れると暗闇になりますから」と体よく追い出されました。
近所のタクシー会社前で運よく1台のタクシーが帰ってきたので三人相乗りで帰宅できました。
自宅に着くと停電中ですが煌々たる月光で室内も障子越しで結構明るく助かりました。懐中電灯は多少電池が心細いが役立ちます。まごまごしていると東京の家内から電話が入りました。
被害はDKの食器ダンスの開き戸が開いてしまい、ガラスのコップや紅茶茶碗が数個床に落ちてコナゴナになりました。
食器ダンスや洋服ダンスは太さ7cm長さ60cmの防振器具を天井板との間に取り付けて置いたので倒れることは防げました。
市ガスと水道のライフラインが生きていたので最悪の事態は避けられ余震のなかでお茶を沸かしてから就寝しました。
中国語講座を聞くためのラジオが手元にあったのでAM/FM放送を聴けました。
停電は13時間半経って翌朝7時半に復旧しましたが電気のアリガタミを再認識しました。
Eメール・サーバーはナカナカ復旧せず気を揉ませましたが14:30に復旧しました。
食料品はイトーヨーカドー地下に買出しに行きましたが問題ありません。
上越新幹線が長岡駅の5km手前で脱線事故を起こした後遺症で今週は東京に戻れないかも知れません。

新幹線との競合で廃止された羽田ー新潟空路が復活するようですが柏崎→新潟空港は100kmもあるので気が進みません。

柏崎ー犀潟ー越後湯沢ー東京のルートが近日中に可能になるでしょう。

高木正幹   M.TAKAKI

Date: Mon, 25 Oct 2004 18:10:03 +0900
From:    古内 サヨ子 歩道が波を打っている。

Subject: 新潟県中越地震から3日目

NET・陽だまりの皆様   古内です

 新潟県中越地震から3日目、日を追うごとに新聞・テレビ等で被害の大きさ知り言葉を失います。

 幸い私の住む近辺は大きな被害も無くほっとしておりますが当日は近所の人たちと剣野小学校に避難をし一夜をまんじりともせず過ごした経験に、家族を亡くし家を失った人達を思うと天災の恐ろしさに立ちすくみます。

 孫の小学校が休校になり、近所に散歩にでたら私の家から250mくらい離れた民家の塀が道路の方まで崩れておりました。

小竹幹事長のメールを思い出し、家に引き返しデジカメを手にしました。

 その直後、お墓はどうなっているかと思い市の墓地公園に向かいびっくり致しました。

墓地公園に通ずる道路の歩道がおおよそ70mくらい波うっているではありませんか最初波型の敷物が置いてあるのかと勘違いしたくらいです。(車道も盛り上がったところあり、産業大学にも通ずる道)

 お墓は自分の家は大丈夫でしたが所々に墓石がずれておりました。

 直接自分自身の家での被害ではないので如何なものかと迷いましたが私の3日目の行動範囲で知り得た地震の被害状況をお知らせします。

「近所の塀」「歩道」「お墓」添付します。

 ★★★              ★★★
       古内 サヨ子
 ★★★              ★★★

Date: Mon, 25 Oct 2004 21:51:44 +0900
From: 植木務・田麦 田麦通信は「NET・陽だまり」だけでなく、広く植木さんの交友関係に配信されています。

Subject: 田麦通信041025

* このメールは同文を複数の方々に BCC でお送りしています。 気楽に読み流してください。

<地震・1  「04年新潟県中越地震・041023/17:56」>

 私共無事です。母屋と離れの車庫も被害ナシ。裏山の崩落もありません。あちこちから、何度もメールを戴いたり電話を戴いたり有難う御座いました。
 最初の時、突然の異様な大揺れに仰天しました。正直心底から怖かったです。柱がギシギシいっている間は、天井ばかり見て動けませんでした。
・・何時この揺れが止むのか、天井が落ちてきはしましかと怖いでした。恐怖に直面している間は、「適切な判断も迅速な行動」も出来ませんでした。あの時もし屋根が落ちていたら、・・・・。
 初震?と同等の余震が二度。また来たか。今度はダメか。心臓がキューン。 3日目の25日の深夜と早朝でも強い余震あり。起きた後で気付くと、サッシの窓が3・4枚、振動で5cm位開いていました。震源地から40kmの所なのですが。

<地震・2>

 直接の被災者は未曾有の難儀でしょう。大被害の方々を思いやられます。 新・新潟県知事は就任直後の初仕事。各面各職の方々の未体験の対応も難儀。 「忘れた頃にやってくる」災難は、何時誰を直撃するか解りません。

この「教訓」をまた痛感させられました。

<地震・3>

 「阪神」の時は眠むっている時で、「数秒の恐怖の時間」は感覚にありません。
「阪神」は飛起きた直後からの「体験」でした。半壊、余震の恐怖、片付、水食料の心配、転居の繰返し(4度/2ケ月)・・等のあの体験は二度としたくありません。
「地震の神様」、もう私を見放して下さい!

<此夏記04>

 異常の年。自然の変化が異常に目立った年ではないでしょうか。 猛暑、火山噴火、多雨、十ケ の台風の襲来と猛威、洪水、地滑り、地震・・。 地球規模の変化の曲がり目の始まりでなければ良いのですが。

………………後略……………………

** ・ 植木 務 

Date: Tue, 26 Oct 2004 09:45:07 +0900
From:    内山 弥生 リュックに重要書類、実印等を詰めたり長靴、ヤッケ,帽子、軍手の用意

Subject: 地震の被害にあわれた方お見舞い申し上げます。

NET・陽だまりメーリングリストの皆様 内山です。

地震の被害にあわれた方お見舞い申し上げます。

そして遠くから松崎様、深田様、大岡様お見舞いのメールをありがとうございました。

私のところは庭の灯篭が2基倒れたことと灯篭が倒れた時に水道管にひびが入り水が漏れ、元栓をとめておりましたので2日断水状態でした。

けれどももう一口裏口に水道がありますのでそこから水を汲んで炊事をしておりましたが、たかが数メートルの水汲みでも不便を感じましたから、まだ水道が復旧しない地区の方のご不自由はどんなでしょうと察せられました。

それから古内様のご報告にもありましたが、家の墓石も落ちました。

まあ被害ははこの程度で済みました。

 地震がおこった日には夕食の準備中でお味噌汁が出来たところでした。すぐに停電しガスも止まりました。子供たちが安否の電話をかけてきたのですが携帯電話を使いこなしていない私、バッグの中で小さな音でなっているのにも気づきませんでした。

その上家の電話もかすかな音で着信を知らせていることがしばらくしてから分かり、受話器をとると会話は普通の音量で出来ました。地震で3,4回ひどくゆれた時に私は食卓の下にもぐりこみました。そして懐中電灯をつけてリュックに重要書類、実印等を詰めたり長靴、ヤッケ,帽子、軍手の用意をしましたが幸い避難所に行くようにという指示もなく家で休むことが出来てよかったです。

FMピッカラと市の防災無線で状況を知りましたが、防災無線で原子力発電所は被害がないと報じられた時には安堵いたしました。

 主人の方も防災無線で「市が医師会に診療の協力を要請した」と報じられましたので、急遽医師会に参りましたがけが人は多くなくて自宅待機で済みました。

お墓の写真を添付いたします。

 △▲△▲     ▲△▲△
     内 山 弥 生
△▲△▲△    ▲△▲△▲

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Date: Tue, 26 Oct 2004 10:45:10 +0900
From:  松崎 貴美子 菩提寺の墓石は無事。Subject:を編者が勝手に変更。

Subject: 色々と情報を有難うございます

松崎です。

色々と情報を有難うございます。皆様それぞれ大変な思いをされたのですね。

貴重な灯篭が壊れたり、家具が倒れて家の中が散乱したり、内山様は台所の水道が使えずとのこと、ご不自由なさっておられることでしょう。

………………中略……………………

私も菩提寺に電話を入れましたところ、(西本町)あちらの方は大したことは無く、我が家の墓石も無事ということでした。

………………中略……………………

皆様どうぞお元気で、この災難を乗り切ってください。

☆〜☆〜☆〜☆〜☆
  松崎 貴美子
☆〜☆〜☆〜☆〜☆

Date: Tue, 26 Oct 2004 10:47:41 +0900
From:  外山 洋子 地震の起きた時は自動車の中。ハンドルをとられ左右に横滑り。

Subject: 我家の被害

NET・陽だまり メーリングリスト の皆様      外山です。

 今回の大地震は想像を絶するもので、ようやく今日あたりから気持ちが落ち着いてきました。被害に遭われた皆様には心からお見舞い申し上げます。又、遠方よりお見舞いのメールを大変ありがとうございました。

 わたしは23日の地震の起きた時は自動車の中でした。主人が「パンクしたようだ」と言った言葉どおり、どうもハンドルをとられ左右に横滑りしているようなので、くぎでも踏んでしまったのかと思いました。

 直ぐに道路脇に寄せて車を停めたら、車ごと左右に揺れてこれは地震だと気付きました。その瞬間見事なくらい街の灯りがパッと消えました。

信号機も消え、恐る恐る運転しながらも道路が大揺れしていましたので、ハンドルをとられそうになりながらやっとの思いで自宅に着きました。

 近所中の人達が家の外に出ていて、これは大変なことになったと話していました。家の中に入ると、2階の娘の部屋の小さな本棚2本とステレオのスビーカーが倒れ、置物も散乱していました。

 別のところでは、いこうかけにかけた服もろとも倒れて散乱し、日本人形の入ったガラスケースのガラス枠がそっくり落ちていましたが、それは割れていませんでした。

 2〜3度目の大きな揺れの時に、ビシッという音で、何かが割れたと感じました。揺れが落ち着いてから懐中電灯で確かめたら、2階に上る階段の上の電灯のガラスの笠が電球と触れ合って割れたようで、階下はガラスの破片が散らばっていました。

 4日目の現在、十日町の親戚は避難所暮らしで、長岡の友達宅はいまだに電気とガスが復旧しておらず、とても恐くて家の中では寝られないと車の中で夜を明かしているようです。

 1日も早く救援と復旧作業が進むことを祈るばかりです。日頃から万がいちに備えて防災用具を準備しておかなくてはいけないと我家では反省しています。割れた電灯の笠の写真を添付します。

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外  山  洋  子
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Date: Tue, 26 Oct 2004 14:25:36 +0900
From: 高木 正幹 東京へ帰るルートの情報提供があり…

Subject: Re:東京への交通

吉田高志さま、小竹さま、交通情報をありがとうございました。

駅に行って訊いて見ましたら直江津までは1時間に1本は電車が出ているので直江津から長野回りで長野新幹線で東京に行くのが良さそうです。

柏崎から東京行きの高速バスも上信越道経由で運行しているようです。

私は11月1日朝までいくつか所用があるので、それを済ませてから帰京しようか?と考えています。

11月4日にも用事があるので、どうしようかな?と考慮中です。東京の家族からは心配しているので早く帰ってこいと煽られていますが。

高木正幹   M.TAKAKI

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Date: Tue, 26 Oct 2004 17:27:01 +0900
From: 小竹 進 小さいラジオではFMピッカラ(コミュニティ放送局)が聞こえない…

Subject: 地震の被害

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  小竹です。

皆様のメールを読むと家屋への損害はなくても色々あるようですね。
古内さんの写真で石塀が倒れているのがありましたが、私が何時も通るところです。
今回は地震以来通っていないので未だ見ていません。

墓苑へは行ってみましたが、山の上の八区で地盤がよかったのか周囲の墓も異常なく、そのまま帰ってきました。22基(注:その後の調査では倒壊・落下56基、ずれ311基。)も倒れたそうですね。
古内さんの歩道写真の所の東方向の車道はそれほど気がつかなかったのですが、帰りの西方向の道が車が故障したと思うほど波打っていました。

液状化現象というものを見た事が無いのですが、大地がゆすぶられると地下水が吹き上げてきて重いものが沈んでいくのだそうです。

内のかみさんに電話してきた吉田恵美子さん(注:当会員)が「日吉小学校がすごい!」と言っておられたので、「デジカメで撮っておいてください。」とお願いしたのですが、デジカメが故障中でダメらしいです。

外山さんの吹き抜けの照明は立派なものが、残念ですね。長く吊るすとぶつかるのですね。

内山さんは重要書類や実印をまとめられたとのこと。私はそんな所まで気が回りませんでした。

電池は消耗するので非常のとき役に立たなくなりますから、手動充電装置のあるラジオを用意した方が良いかと思いました。

電池式のラジオでFMピッカラを聞こうとしたのですが、短いロットアンテナでは聞こえませんでした。

防災無線が停電でも聞こえていたので不思議に思っていましたが、電池を入れてありました。

災害用伝言ダイアルがあり、新潟県(市外番号が025で始まる地域)は、被災地・被被災地とも録音・再生が可能とのことですが、利用しませんでした。何方か利用された方が居られますか。
http://www.ntt-east.co.jp/voiceml/news/index.html(注:このページは11/3現在閉鎖されているようです。)

2004/10/26(火) 17:25:41 ******* 小竹 進 Odake Susumu *******
     陽だまりへ すてきな笑顔に あいたくて

Date: Tue, 26 Oct 2004 22:04:41 +0900
From: 中村和夫・葉子 物置から25年前の非常袋を取り出して…

Subject: 怖かった地震

陽だまりの皆様

                              中村です。

 被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

みなさまのいろいろな画像にびっくりしています。

まずガスを消し、玄関の戸を開けました。一回目の地震がおさまってから、物置に置いてある非常袋を出し、長靴とベンチコートを玄関に用意しいつでも逃げられる準備をしました。

 非常袋は大宮に住んでいた頃(25年前)「市」から配布されたものです。 もう一つは普通のリュックです。でも入っているものは内山さんのように大事な物はなにも入っていません。缶詰、かんぱん、タオル、テッシュ、少しの医薬品だけです。今回逃げる事を考えても、バスタオルと下着、セーターを入れたぐらいです。

 車庫の上の物置にある小さな本箱が倒れましたが、神棚にあるなにやらこまごましい物、なんかはなにも倒れなかったんですが、お風呂の水が、ふたをしてあるのに、洗面所の床が半分くらい水びたしになりました。(お風呂と洗面所の戸が閉めてなかったせい)揺れが治まってから、お風呂のふたを開けて見たら、ものすごい大波、小波・・・でした。

 翌日(24日)原信に、自転車で買い物に行った帰り、田中地内で陥没をいくつか見ました。防災無線で流れているようですが、マンホールのこんな所が柏崎にもたくさんあるようですね。

 近所に住む弟が2回目の大きな地震の後、来てくれて外で話 をしている時大きな流れ星がサーッと東の空に流れました。 おもわず「早く地震が終わりますように・・・」と手を合わせました。

この日は月の光が停電した真っ暗闇でコウコウと輝いていました。

 ニュースを見るたび、早く、なんとかできないものかと心が痛みます。 もうこれ以上地震がこないように祈るだけです。

                                 中村

Date: Wed, 27 Oct 2004 12:06:18 +0900
From: 小竹 進 外山洋子さんがメールを送信できずFAXで送られたものをメーリングリストへ転送したもの

Subject: 災害用伝言ダイアルの利用

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  小竹です。

外山さんからの書き込みです。昨日から新潟ですがパソコンの不調で送信できず出勤前に私宛にFAXを送ってくださいました。

私のスキャナがSP2のためかTWAIN機器として認識してくれないので、OCRが使えず手打ちになりますので間違いがあるかもしれませんが、お送りします。

*********************************

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  外山です。

小竹様の災害用伝言ダイアルについて、我家で利用いたしましたのでご報告致します。

大地震の23日は一晩中停電し、その中で被災地の電話は、回線が混みあい、一般電話も携帯電話もかかりにくく、主人の弟から地震直後にかかってきたのは奇跡に近いと判断しました。直後だったから未だ空いていたのかもしれません。しばらく経ってからのこちら柏崎からの発信(新潟県内に向けて)は全くだめの状態でした。

その日、新潟に住む娘は、友だちの結婚式の二次会に出席予定でしたので、多分夜遅く帰宅してからのこちらへの電話はかかりにくいだろうと想像しました。

ラジオで、災害用伝言ダイアルの説明をしていました。これなら、取りあえず、我家に電話してくださった方々に無事でいることが分ると思い、録音してみることにしました。

録音ガイダンスに従い録音するので、いつもより時間がかかる上、頭も気持ちも焦ってパニクッているので、グラッと来ては中断し、ガイダンスの意味がいまいち理解できずにやり直したりしたので数回目に成功しました。

『171』にダイアルすると、詳しいことは忘れましたが、確か我家の場合はガイダンスに従い、録音の『1』をプッシュして、その後、『我家の電話番号』もしくは『こちらから連絡をとりたい電話番号』をプッシュしたその後で30秒以内にメッセージを話しました。それで録音完了でした。取りあえず『我家の電話番号』と『娘の電話番号』に録音したつもりでした。が、うまくいったのかどうか分りませんでした。

深夜の1時頃、娘から電話がありました。二次会から9時頃帰宅し、やはりこちらの様子を心配したようで、柏崎に何度も電話しても繋がらなかったようです。それで、もしやと思い『自分の電話番号』と『こちら柏崎の電話番号』の災害用伝言ダイアルに録音はないかと『171』に電話をし、こんどは再生の『2』をブッシュし、『伝言を聞きたい電話番号』もプッシュしたら録音が入っていて、ひとまずほっとしたと言っていました。録音はふたつの電話番号それぞれに入っていたようです。

利用してみて、後からこれは良い方法だと思いました。が、当日は気が焦って無我夢中でした。この災害用伝言ダイアルの録音の有効時間は確か短かった(48時間)ようでした。災害用伝言ダイアルを利用するような出来事はもう味わいたくないですね、

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     外山洋子 (新潟市)
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Date: Fri, 29 Oct 2004 13:25:49 +0900
From:  篠田 睦子 「もうここまで生かされてきた。後は天に任せよう。」開き直った気持が沸いてきた。

Subject: 災害は忘れた頃やってくる。

皆様こんにちは。   篠田です

 遅ればせながら地震体験をご報告申しあげます。

皆様からのメールありがとうございました。

10月 23日18時頃であった。今夜は町内集会所で19時から会議が予定されていた。鍵を開け、室内の暖房など班長の私の役割であった。

書類を見ながらのんびりと一人早夕飯を摂っていた。

 そんな矢先 「どがん、めりめり・・・」わが家の大黒柱が根こそぎもぎ取られるような騒音と強度の揺れ「あ、地震だ」即電気が消え、ガスも止まった。私はすぐ食堂テーブルの下へもぐり、うつ伏した。揺れのおさまるのを待った。体が左右前後に大きく揺れ動き不気味であった。

 しかし、不思議の事になぜか落ち着けた。と、言うのも 忘れもしない「今日は私が消化器の大手術を受け丸23年、いよいよ24年に入る」そんな記念日であった。「もうここまで生かされてきた。後は天に任せよう。」開き直った気持がどこからか沸いてきた。

 

 揺れのおさまるのを待って懐中電灯・非常用リュックを取りに行き中身を点検中次の揺れに合った。

その間次々と市から流れる市防災行政無線( 戸別受信機 )、一点の小さな赤色のランプが闇を照らし心強かった。

「おーい 篠田さんいるかい・・・みんなS さんの駐車場に集まっているから出てきな・・・」「はーい」 E さんの声であった。

電気の元栓ブレカー・ガスの元栓を閉め、急いで駐車場へ行った。町内の皆さんが肩を寄せ合っていた。

携帯電話を子供の所へ再度を掛けるも通じなかった。やがて充電へのメッセージで断念。

その間に子供が尋ねて来たとの事、避難先へのメモなど考えも及ばなかった。

わずか三軒先の避難先でしかなかった。幸い裏の戸を空けていたので家へ入り避難していることがわかったらしい。

 余震を気にしながらも1時間位で家へ帰った。今度はKさんが気遣って声をかけて下さった。又町内への意識を新たにした。市防災行政無線(戸別受信機)はしきりに新たな情報を流してくれた。本当にありがたい。と思った。

20:30分 非常物品を枕元に、無線放送を聞きながら静かに布団には入った。

子供が再度尋ねてきた。「不安だろうから家へ来るか?」と進めてくれたが遠慮した。気持ちだけで充分であった。

余震のする中で、無事一夜は明けた。班内を見回り皆さんの無事を共に喜びあった。

「災害は忘れた頃やってくる」 自然の恐ろしさ、多くのことを教えられ、被災者の救済が一日も早いことを祈ってやみません

    篠田 睦子
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Date: Fri, 29 Oct 2004 19:45:09 +0900
From: 帆刈千鶴子 松雲山荘は紅葉が色づいている庭園がありこの時季は訪れる人が多い。

Subject: 10.29赤坂山公園・松雲山荘

NET・メーリングリストの皆様      帆刈です。

この度の新潟県中越地震はなかなか終息宣言が出そうもなく、被災地の方々の心労の程は想像を絶するものがあります。

気温が下がり、雨が降れば、環境はますます劣悪になります。

人間の忍耐強さも限りがあるよーと天に向かって叫びたいです。

今日、午後、赤坂公園の入り口近くに崩落があると聞き、写真を撮って来ました。
公園の入り口より右側10メートルぐらい入った松雲山荘の崖が、崩れていました。
いつの時点で崩れたのかわかりません。

松雲山荘内では茶道館までは入れるようになっていますが、庭園へ通ずる道は全部縄が張ってあり、侵入禁止の札が下げられています。
園内で落ち葉をかき集めている方に伺いましたら、石灯篭が4基傾いたり倒れたりしたそうです。
石像などが縄で固定され、余震に備えられていました。
11月2日から始まるライトアップの準備は出来てはいるようでした。
2枚写真を添付します。

被災地の方々が1日も早く元の生活に戻れますように祈るばかりです。

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      帆刈千鶴子
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Date: Sat, 30 Oct 2004 14:20:05 +0900
From: 帆刈千鶴子 Subject:を編者が勝手に変更しました。

Subject: こまやかな情報と細やかな配慮

NET・メーリングリストの皆様      帆刈です。

 地震発生後1週間、あまり出歩かず、情報は新聞、テレビ、防災無線等で得ていました。遠方からのお見舞い電話では、大したことにならなかった不幸中の幸いを喜んでいました。

 今朝、穂波町の友人からの電話で知ったのですが、友人のところでは大谷石の石垣上2段が6,7メートルにわたり崩れたそうです。作ってくれた石屋さんは方々の被害に忙しくて、今朝漸くかたずけられたそうです。また、屋内ではガラス戸つきの大きな書棚が45度に傾き、ご夫婦では起こせず困っていたところ、「班長さんが異常の有無を確かめ」に廻ってこられ、3人でトライしても駄目だったそうです。暫くしたら、班長さんが屈強な男性5,6人を引き連れてきてくれて、無事、起こせたとの事。青年団の人でも?と確かめたら、「防災のために動いている消防団の方々」だったそうです。

 この度の災害では、防災無線のこまやかな情報、諸注意を大変ありがたく、心強く思いましたが、そのほかにも細やかな配慮がいきわたっていることを知りました。

………………後略……………………

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      帆刈千鶴子
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Date: Sun, 31 Oct 2004 21:15:43 +0900
From: 中澤  功 整理されたレポート。この後LED型の携帯電灯の点灯時間の実験をされました。

Subject: 我が家の地震被害 他

今晩は

NET・陽だまり「中澤 功」です。

地震で皆さんの
被害
当時、取られた動き
非常時の持ち出し品
について等を、ご報告しておられましたが被害を被られました方にはお見舞い申し上げます。

一日も、早く元の生活に戻られますことを祈念いたします。

長文になって済みませんが我が家の状況をお伝えします。

我が家の状況

  1.  お墓
    お墓は、柏崎市の墓園にあります。 市から墓石がずれていますとの案内が来ました。 昨日(30日)に行って直して来ました。 その時、古内さんからのメールがありましたので墓園までの堀地区の道路(特に歩道)を見ましたら、見事なまでに波打っているのを見ました。 (すごいエネルギーですね)
  2.  家の被害状況
    私の部屋(?:物置と化しています。)が一番ひどくて本棚に入っていた本が崩れて部屋中ばらまかれてしまいました。 その本棚の下に机があり、ノートパソコンがありますが、その上にも本が落ち、故障したかな(?)と電源を入れてみましたら一応動きましたので一安心でした。 本棚は倒れませんでした。(鎖で固定してありました。) 地震のとき、吊り下げ形の蛍光灯が天井張りに「がたん」とぶつかっていましたが、幸いなことに割れるなどの被害はありませんでした。
    二階にあるテレビが置き台から落ちていました。 また、大きな余震があると怖いので10日間ほど床に置いておくことにしました。 後、食器棚が倒れたり、食器類が棚から飛び出すことはありませんでした。
  3.  ご近所
    私の町内では道路の所々に地割れや、陥没がありました。 今日、改めてそのうちの一つを見に行きましたら、気のせいか地割れが広がっているような気がしました。(約10cm) まだ、この地割れを補修はされていません。 その付近では傾いた住宅が何軒かあるようです。
  4.  避難
    揺れている時は、柱や何かに掴まっていました。 外へは、状況を見る程度ですぐ、家に入ってしまいました。
    また、揺れた時は、すぐに使っていたガス器具の火は消しましたがガスの元栓を閉める、電気のブレーカを落とす、はすっかり忘れ、防災無線で広報されてから処置する始末でした。
    後で、考えると、この時は、出来るだけ外に飛び出すか、何か、丈夫な台の下に入ることが先ではと考えました。現在は、余震が来たら、外に飛び出すことにしています。
    今後は、一階には、食事用のテーブルがありますが二階はどうしたものかなと考えています。
    兎に角、外に逃げる
  5.  情報の収集
    カセットレコーダーがありましたが、もっぱらAC電源で使っていた為、単一の電池が入っていませんでした。(このレコーダーの場合、電池は8個必要です。)
    今回はたまたま、普段使わず物置に置いたUPSに電気が少し残っていましたのでそれに接続して、1時間に5分くらいずつ聞いていました。
    (翌日、ホームセンターに行って、8個購入してきました。)電池の要らない手回し発電機付きのラジオもこの時購入しましたが、説明書を見て、また、実際に使ってみてこれは、若い人なら使えるかもしれませんが、私みたいに力が無くなってきた者には辛いところがあります。
    私が購入したラジオの説明書には1分間に120回、1分間回転させるとラジオなら1時間、ライトなら17分間点灯します。
    となっていますが、発電機の部分:ハンドル が意外と重く、私は回してみると80回/分位 しか回せませんでした。
  6. 携帯の電源
    普通の電話で通じないので、携帯で連絡しようと電源を入れましたら、これも残り僅かの表示でした。 これも、今回は上記のUPSに助けられ、携帯に充電することが出来ました。
    しかし、これも普段から危機意識を持って、乾電池からの充電装置も用意しておかないと、と思いました。
  7.  家庭用電話機
    私の家にある電話機は100Vの電源がないと使えないものでした。改めて、この電話機の説明書を見ましたら、停電用に接続する口がありました。ここに100Vの電気が要らない電話機を接続すれば、停電時でも通話できたと思います。上記6で通じないときの原因が本当に混んでいて使えなかったのかも知れませんが、その前にこの電話の機能を充分に熟知していなかったことが上げられます。
  8.  照明
    単一電池を使った普通の懐中電灯もありますが電池がどれくらい持つか分かりませんので今回、いたずらで購入していた「LED」形キャップライトを使いました。明るさは、私が持っているものは一般の懐中電灯よりも暗いようです。
    使った理由:電池の消費量が少ない ためです。
    寝るときに、余震が来た時、足元が分かるように常夜灯代わりに使ってみました。
    この時、「LED」は8個あって、2個、4個、8個と点灯する個数を変えられるようになっています。 当然、点灯する個数が多いと電池の消費量も多くなります。
    使う乾電池:単4 3個 (電池の種類:アルカリ、普通 の記述はありません)
    使える時間:2灯:連続 約50時間 (説明書による)
           4灯:連続 約40時間
           8灯:連続 約35時間
    結果:22:00〜翌朝 06:00 「LED」は2個点灯し、23日〜30日朝まで7日間常夜灯として使いましたが、まだ、使える状態です。 (上記の説明書によれば、そろっと、電池の交換時?)
    また、電池はアルカリ電池を使いました。
  9.  非常用持ち出し袋
    一つに纏めて持ち出せるようになっていませんでした。
    内山さん、中村さんの写真付きの説明を今後の参考にさせて頂きたいと思います。
    ありがとうございました。

以上です。 大変長くなってしまい済みません。

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     中澤  功
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Date: Mon, 01 Nov 2004 09:29:42 +0900
From: 小竹 進 ガスや電気の始末、貴重品・非常持ち出しの物品などに気を回すゆとりはありませんでした。

Subject: 地震の被害

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  小竹です。

4日間強い余震がなかったのですが、また今朝早く強い余震がありました。 こんなことを繰り返しながら収束へ向かっていくのでしょうね。

皆様から沢山地震の情報を書き込みしていただきました。未だ取りまとめている方も居られると思います。 「遅くなったから」と言わないで、また「大作をものにしよう」と思わないで書き込みを続けていただきたいと思います。

私の場合前にも書きましたように、23日は土曜日のため5時に図書館をドア施錠直前に出て帰宅、風呂から上がって食事まで少し時間があるので、図書館で作業をしていたWebページの確認をしようと二階でパソコンに電源をいれデスクトップのアイコンが表示されたところで、ドシン!ときました。

「地震だ」と思ってパソコンの終了手続きをしようと思ったのですが、液晶デスプレイが踊っているし、キャスタつきの椅子がぐらぐら動き体が定まらず成す術がなくその内に停電。

肘掛を両手で踏ん張りようやく立ち上がる事が出来ました。暗くなった室内でバタン!・ガシャン!・ドタン!・と何かが倒れたり落ちたりする音がするが、片耳しか聞こえないので方向が分らず、何時も定位置にある懐中電灯を持ち隣部屋にいる娘に声をかけ、階下へ行くと居間でうちのかみさんが1歳10ヶ月の孫にしがみ付かれていたのか、孫にしがみ付いていたのか分りませんが、音も出さずジッとしていました。

兎も角別の懐中電灯を探して渡し、続いてくる余震に怖くなり皆が外へ出ました。

屋外は月明かりで様子が分り、近所の人も出てきました。うちのかみさんは近所の人と近くの空き地に筵を敷いて月明かりの中で話していました。

この間ガスや電気の始末、貴重品・非常持ち出しの物品などに気を回すゆとりはありませんでした。防災無線で「ガスの元栓を締めろ」「ブレーカーを落とせ」と指示されて始めて気がつく状態でした。

廊下のコンセントに差し込んである人体を感知して一定時間点灯する充電式の照明器具は、一晩中働いていました。

翌朝電気が回復したのに気付き、ラジオを聞こうと思いましたがいつもの場所にラジオが見えないのです。床に落ちていました。

我家で落下・転倒したものの中で最も高価なものがこのCD-MDポータブルシステムでしたが、スイッチを入れるとFMピッカラが聞こえ、地域の状況を知る事が出来ました。それまでは小さいラジオではFMピッカラが聞こえませんでした。

昨日家の周りを調べてみましたら、子供の家の基礎に3箇所細い亀裂が入っていました。地震前にあったかどうかは分りません。車庫の外側ですから開口部があり構造的にも弱かったかなと思っています。

2004/11/01(月) 09:29:26 ******* 小竹 進 Odake Susumu *******
     陽だまりへ すてきな笑顔に あいたくて

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Date: Mon, 1 Nov 2004 15:25:37 +0900
From: 間瀬 一郎 東京の結婚式場で地震に遭い電車で柏崎へ

Subject: 中越地震その時

10月23日私は東京にいた。

甥の結婚式に出席の為日帰りの予定で出発し、青山の教会に向かった。式も滞りなく終了し、渋谷の披露宴のあるホテルに行き、ホテルの32階にあるフランス料理店の会場に入った。

午後5時定刻に披露宴は始まった。型通りの行事が進み、主賓の挨拶も終わり、新郎新婦のビデオが流され、盛り上がったところ、地震があり、32階の会場はかなり揺れた時間も長く感じた。会場は一瞬止まったが揺れも収まると何事もないように式は流れて行った。しばらくしてホテル側からの情報で東京の震度は4だった。震源は新潟県だという。これが午後7時過ぎだった。

それから心配になって家に電話を掛けるが通じない。NTTが「只今大変込み合っておりますしばらくしてからお掛け直し下さい」という。それでは携帯電話ということで電話を持っている人から掛けてもらったが、携帯どうしでない為か掛からない。公衆電話から十数回は掛けたが通じない。東京在住の親戚からテレビの情報を貰いながら電話を掛け続けた。

 やっと8時頃になって電話が通じ、娘が悲鳴をあげていた。「家屋根の瓦が2枚くらい落ちた」、「座敷の肖像が落ちた」とか、砂壁になっているので「細かい砂が落ちている」とか、兎に角命に触るほどのことはないようだが、心細いのは伝わって来た。
 最初から日帰りのつもりなのですぐ帰ろうと思うが列車は全て止まっているという。その内「上越新幹線は長岡の手前で脱線して当分運転の見込みはない」というので仕方なく泊まることにした。式は無事8時過ぎには終わり、渋谷駅前のホテルに泊まる。

 テレビを見ると新潟はかなりの被害らしい。兎に角明日早く帰ろうと床に入るが寝付けない。そうこうするうちに夜が明けた。ホテルに電車の情報を聞くが駅の電話も繋がらずテレビの情報以上にはない。インターネットでも調べてくれたがはっきりしない。兎に角駅に行ってみようと思い、6時にホテルをチェックアウトして、東京駅に向かう。

 昨夜のテレビで長野新幹線は遅くなって通したと言っていたので、長野経由で帰ることに決め、東京駅の新幹線乗り口で上越新幹線の切符の路線変更をする。帰りの指定もとってあったのでそのまま「あさま1号」の指定に切り替え乗車した。長野から普通電車で直江津まで、若干待ち時間はあったが、通常の時間通りで直江津に11時過ぎに着いた。これから柏崎までが時間が掛かった。12時16分発と時間表にはあるが柏崎から直江津に向けて来る筈の電車が柏崎駅を発車していないという。ようやく1時頃になって柏崎を発車したと放送があった。柏崎に着いたのは2時を廻っていた。

 家にくるまでどんなになっているか、心配だったが近づいて見る限り別に変わっていないので一安心だった。
 中に入って一番問題だったのは2階の一部の瓦がずれて下のコバに少し穴が空いており外の明かりが見えていることだ。これでは雨が降ったら漏れてしまう。しかしその日は日曜日でどこも仕事は休んでいるだろうから明日にする。幸い雨が降りそうもないので助かった。
 それでもとアール・ケー・イーの元社長に電話で頼むことにした。彼は不在だったが後で電話があり屋根の修理をRKEに頼むから貴殿からも口添えをと頼んだ。

 翌日9時に電話しようとしたらそれより早く、RKEから電話があり早速見に来てくれた。  間も無く職人も着てくれて1時間もしない内に直してくれた、夜雨が降ったがお陰で雨漏りもなく無事だった。

 その他は家の中も大体片付いていて、被害の写真をとるものも無かった。

 後でメーリングリストで交わされる話で柏崎でも被害があったのだなと驚いている次第。

Date: Mon, 1 Nov 2004 23:27:11 +0900
From: 植木務・田麦 ボランテア支援に参加、直前で中止。

Subject: 田麦通信041101

* このメールは同文を複数の方々に BCC でお送りしています。 気楽に読み流してください。

「04年新潟県中越地震・041023/17:56」> の先便に続き、お気遣いへの感謝を込め、その後をご報告致します。

1) あの日・23日は県と部落共同のイヴェント日でした。6時pm開始予定15名弱のほぼ全員集合。そこへの「地震」。村営の「庄屋の家」でした。
   「茅葺・一棟・60坪?」が「ギシギシ」と音を立てて揺れました。

2) 県内各地からの参集者は、揺れが収まるや、家や事務所や役場に携帯連絡。私も我が家へ夜道を急ぎ、家内と家の無事を確認し、 会場に戻りました。
3) その時の不都合者は帰宅。予期せぬ強い余震の中で会は開催続行。
   翌日の「田麦ブナ公園研修・散策会」は、規模と時間を大幅縮小して実行。
 

4) 週明け直後の決議でしょう。大島村は被災地支援として、最寄の「十日町」に「にぎりめし」・毎日・600食・10/27-11/07 を、村内全集落の協働で、実行を始めていました。

5) 28日、田麦を含む地区会議で、他の審議に先立ち、「十日町」支援を議決。
   11/01・02 の 2日間 (ボランテアの多い土日を避けて)。

6) 先方要望=「熱い汁物」、を受けて 「豚汁」・500人分・昼と夜の二回。
   当地での後方支援15名、現地派遣隊15名。
   人員、食材、調味料、食器、箸、水、鍋、窯、薪、車 ・・全て自前調達。

7) 区長通達を受けて、私と家内も両日のボランテア参加を申し込みました。

8) 事態静穏化により、「十日町市当局」は、10/31昼・避難警告?を解除。
   十日町の多くの市民は避難場所から自宅へ帰還できる事になりました。

9) その夜、大島村は全戸への防災無線で、十日町市からの「謝辞」と共に、大島村の 11/01- 以降の被災地支援活動の中止が放送されました。

10) よって、田麦・当地区のボランテア支援も、直前で中止となりました。

11) 隣接の「柏崎市」はかなりの、道路・塀・家屋・家財・墓・・の被害あり。

12) 両隣の「町」では、家屋崩壊、避難所避難・・があったそうです。

13) 出席予定の幾つかの公的行事も地震余震の影響で中止になりました。

14) でも、「田麦」での大被害は聞いていません。余震も減っています。

御気遣いを感謝致し、ご報告申し上げます。

** 植木  務  **

Date: Tue, 2 Nov 2004 00:03:50 +0900
From: 古内 サヨ子 近所の人たちと避難所へ一晩避難。

Subject: 「地震の一夜」

NET・陽だまりの皆様  古内です 

 平成16年10月23日土曜日、その日は夜7時より産業会館での堀井真吾氏の「演ずる事我が人生」講演会に参加するために、いつもよりは早目の夕食を食べ終えて,お茶でもと用意する間もなくグラグラッーと大きい揺れ、片付けの食器を流しに運んでいた娘は立っていられなくワッーワーとその場でしゃがみ込みました。

  ともかく外に出ようと大きな揺れが収まってから懐中電灯を手に外に出ました。近所の人たちも道路に集まり、まだ外に出ていない人には声を掛け皆で揺れが来るたびに道路にしゃがみ込んでおりました。

寒さが身にしみたので車に乗ろうと言う事になり、近くの剣野保育所の広場に車を止め、カーラジオとひんぱんの防災無線での広報に耳を傾けておりました。

 防災無線の広報でガスの元栓と電気のブレーカを落とす指示が入り、指示どおり確認したのを機に皆と相談して剣野小学校に避難する事にしました。私達が剣野小学校に着いた頃は体育館半分くらいにござが敷いてあり、ござの上は避難している人でほぼ埋まっておりましたが空いているスペースに毛布を借り、家から1枚だけ持って行った毛布と重ねて暖を取りました。乾パンも用意されており、有難く乾パンを口に入れ、そうだとばかりに近所の人が急いで持ってきた袋の中から取り出したのは、あめと生の鶏肉でした。思わず笑ってしまいましたが考えて見れば自分自身は何も持って出なく笑えたものではありません。

 落ち着いたら帰るつもりでしたが頻繁に余震があり一晩お世話になる事にしました。大きな建物と皆がいる安心感はとても心強く多少の寒さはガマンしなければと毛布に包まっておりました。市の職員の人が眠りもせず横にもならず毛布も使わず、皆が横になっていても一晩中固い椅子に座り何かあったら直ぐ対応できる態勢にいたのには、さすがびっくりもし頭がさがりました。寒かろうに交代で毛布に包まって少しは横になればいいのにと思いつつも、うつらうつらと朝を迎えたら全員におにぎりを配っているところでした。

 10月23日土曜日午後5時56分発生した地震で初めての一夜の避難を経験して、近所で助け合う心強さと防災無線で情報を得る有難さ、避難所での私達は守られているのだと言う確信を得て、朝食で頂いた固くてぼろぼろしたおにぎりがよけいに有難くて心を満たしてくれました。

 ★★★              ★★★
       古内 サヨ子
 ★★★              ★★★

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Date: Tue, 2 Nov 2004 10:35:19 +0900
From: "小林 雄三" 被害の多かった北条地区の町内会長。

Subject: 陽だまりの皆様

陽だまりの皆様へ  小林雄三です。

 23日の大地震の時、東京ビッグサイトのパソコン展示会をみて、西神田の長女の家にいました。孫の学校で飼っている亀の泳ぎがいつもとちがい手足の動きが異常に速く、地震があるかも・・・・といって帰ってきました。

その30分後ぐらいにマンションがゆれだしすぐ机のしたにはいりました。テレビをつけますと、新潟県中越が震源地とわかり、びっくりしました。

柏崎がどうなっているか心配でしたので、電話をしましたがどこも通じません。ケイタイに小竹幹事長さんの住所が入力せれていたので、電話メールをしましたが、どちらも通じません。

テレビには小千谷、十日町、長岡など道路の亀裂、家屋の倒潰、けが人が長岡の病院に運ばれる情報がありましたが、柏崎の情報はありません。翌日刈羽郡病院に30人怪我をして運ばれたとの情報が文字ででる。水、食糧を買い娘夫婦も一緒に長野新幹線にのり、直江津経由で3時過ぎ柏崎駅に到着しました。柏崎の中心部は平静なのに安田すぎたあたりから道路の陥没がひどく地区の家の瓦が落ちシートをかける作業がされていました。

 町内会長をしていますので、昨夜からの状況を聞き村を回り山崩れ道路の破損状況をみてまわり情報収集につとめ、市役所との連絡におわれました。

 自分の家も土蔵の壁がおち補修をしています。176年に一回の大地震ということで北条地区の被害はとくにひどいようです。皆さんのお家も被害がおおかったと思いますが、お見舞い申し上げます。

☆★☆★☆★☆★☆★☆
    小林 雄三
☆★☆★☆★☆★☆★☆

Date: Tue, 2 Nov 2004 12:28:11 +0900
From: "板羽 知光" 停電の市内を車で移動。コンビニの手伝いから寺院の後片付け。すごい行動力です。

Subject: 地震のお見舞いと感想の一端

NET・陽だまりメーリングリストの皆様  板羽です。

 この度の中越地震では、さぞ驚かれたことと存じます。
 余震も次第に少なくなりつつあり、その終息が早からんことを祈ります。

 幸いにも、当地は震源地から少し離れていて、その被害が軽微だったことを喜ぶものであります。それにしても、被災地の小千谷市、川口町や山古志村、堀の内町等の震源地で被災された方々のご苦労は、さこそとご同情に耐えません。心よりそのご健勝とご安泰をお祈りいたします。

 遅まきながら、今回の地震について、報告いたします。当日、23日の夕刻に、前の日から出かけていた地区の老人会の旅行から帰り、家内と市街のスーパーへ買い物に行き、宮之窪に戻って、自宅に入って点灯した直後に、グラグラと第1波の震度5強(当地)の地震が来ました。

 秋の日暮れは釣瓶落とし、その時、正に午後5時56分、室内の電気は直ぐに切れて、辺りは一瞬間真っ暗になりましたが、私は玄関を入ったばかりでしたので、家内と共に、直ぐに戸外へ逃れました。

 そこへ、クロネコ大和の大型トラックがやって来て、お宅の前に来たらグラグラと揺れてきて、さては、車がパンクかと思ったら、辺り一面の家の明りが消えたので地震だと思った。と言って、私の長男が、川越の駅前のマンションから、都内の港区の港南ハイツへ引っ越すので、その荷物を1時預かりして欲しい。 とのことで、大きなダンボール箱をば23個も送って来た。それを、クロネコの二人の配送員が運び込む。その荷物を、私はひたすら懐中電灯で照らしていました。 

 配送の人が荷物を運び込む間にも、第2波、第3波の激震が襲い来る。家内は玄関前の大きな樫の木の下で震えていましたが、クロネコの人も、私も、これ程大きい地震とは気ずかずに、仕事に没頭していた。

 とにかく、クロネコの人たちは急いでいたので、1時は立ち竦む思いだったが、地震の揺れが収まると、直ちにその作業を継続し、その間私たちはあまり不安を感じなかった。

  間もなく、市の防災無線の放送で、震源が小千谷市付近だと知れた。 荷物を運び終わると、そそくさとクロネコの人たちは立ち去った。

 家の中を懐中電灯でさっと照らして見たところ、何ら異状もなさそうなので、穂波町の店が気になり、家内を車に乗せて穂波町へと急いだ。 その間、間断なく、市の防災無線の放送があったが、車から見る市街は真っ暗闇で、国道は車で溢れいた。

 北陸高速道が使用不能なので、八号線を通る車の客が店へ引っ切り無しに入って来る。我が店は、自家発電で、かろうじて数灯の薄暗い光りを放っていた。薄暗い店内は、まさに、客で溢れ、弁当やパンの類は忽ちに売り切れ、菓子や飲料水も飛ぶように売れる。

 レジが2台しかなく、店員の手元も暗いので、店長に請われるまま、私らは、暫らく店員のレジの手元を蝋燭と懐中電灯で照らしてやりました。

 11時過ぎに新潟から息子が来たので、西本町の3人の孫たちが気になり、店を出て駅通りへ向かう。その時に一般交差点は信号機が効かなかったが、関町の交差点では、その信号機が作動していて助かった。

無信号の交差点はやはり怖い。

 

 西本町の家に着くと、家は暗く、玄関の鍵がかかっていたので、しばらくの間、車の中で周囲の様子を覗っていると、町内の自警の方がやって来て、高齢者や女子供の家庭の人は、市の指導で、柏崎小学校へ避難している旨を伝えたので、一安心して、老夫婦は宮之窪の家に引き返した。

  

 自宅前の私道上に車を駐車してはみたものの、暗い我が家に入る気になれず、懐中電灯を照らして、寝室から毛布を2枚持ち出して、夜半まで家内と共に車内で過ごしました。

 カーラジオからは絶えず地震のニユースが流れ、次第に今回の地震の様子が分かってきた。車の中はどうも寝苦しく、かつ寒かったので、多少の余震の揺れを覚悟して、午前2時ころに家に入り、温水器の湯を注いで、蝋燭の火で風呂に入り、朝までぐっすりと休みました。

 (被災者の方々には、まことに申し訳ないことですが)

 24日の6時5分ころに、大きな揺れ(当地で震度4との市の報道)があり,これが目覚ましとなって起床する。明るくなったので、仔細に家の内外を調べて見たが、全くといって良いほど、我が家の地震の被害は無かった。

庭の灯篭や庭石、植木鉢の類。書棚、食器棚の中も皆無事だった。

 しかし、ただ1個、孫たちの手の届かないようにと棚の最上段に置いたイタリヤのミラノで買ったベネチュア、ガラスのワイン、グラス2ケの中の1ケが落下して無惨にも破損していた。(私にとっては記念であり、比較的高価な物だった。)

 7時過ぎに電気が回復し、電話回線も復旧して、西本町の方の無事を確認し、岡野町の寺に電話をすると、ただ独りで大きな寺を守る義姉が大変だと言う。

 朝飯もそこそこに、家内も車に乗せて、国道252号線を高柳町へと向かう。

 300年前に創建した総欅造りの寺の本堂は、外見上は全く異状が無く見えた。

しかし、本堂内へ一歩入ると、内陣は足の踏み場もないほど、仏具やお位牌が散乱していて、どこから手をつけて良いか迷うほど。若住職の高校教師は、前日から県外の福島県の方へ旅行中だった。

 さいわい、本尊様も脇侍仏も安泰だったので、須弥壇付近から片ずけだした。

午前中かかり、内陣の内だけを妻と二人で、あらかた片ずけて、檀家や付近の人びとが来たので、バトンをタッチして、昼食もそこそこにして、寺を辞して宮之窪の家に戻る。まだ、都市ガスは使えないが、電子レンジが使用できて大変助かりでした。

 思い起こせば、半世紀以前の昭和19年12月7日、午後1時35分、名古屋市内の軍需工場に勤労学徒動員中に、大津波を伴ったマグニチュード 8の烈震が名古屋市の臨海部を襲った。

 この東南海大地震は厳重な戦時報道管制下で、その災害は極秘扱いであり.飛行機などの軍需産業・重工業に与えた大打撃は、わが国の敗戦を印象ずけるほどで、その被害は実に大きなものだった。

 死者1,223名、負傷者2、864名、全壊家屋18,000戸、半壊家屋36,529戸。

市内で全半壊した工場は117棟など、全くその被害は市民には知らされず、電気、ガス、水道などが止まったままで、不安な夜を過ごしたこと。

 その頃から、昼夜を問わず襲い来る米軍機の爆撃に、私の動員中の軍需工場が何回も爆撃を受けたこと。罪の無い市民の家々が焼夷弾で焼かれ、私も焼け野原を彷徨った思い出が蘇って来る。

 それが今日では、市の防災無線で、個人の携帯電話で、逐一報道、通信ができ、一晩で家庭の電気が復旧して、家庭の電話が通じ、各家族の安否が確認できる。まさに、隔世の感ありです。(市内で1部被災されて,いまだ不自由な生活を余儀無くされれている方、並びに、被災地の方々には、まことに申し訳ありませんがーーー)

 地震が起こって、既に10日を経ようとする今朝も、また余震が有りました。

被災地の皆さんのご苦労が察せられます。本格的な冬を前に、一日も早く被災者が立ち直りを図られるように切に祈ります。駄文お許しください。

板羽 知光 T.Itaba
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

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Date: Tue, 2 Nov 2004 17:21:52 +0900
From: 吉田 高志 2泊3日の東北旅行が中止と深夜に旅行社から電話

Subject: 地震体験メモ その時私は

10月23日、その時私は、明日から出発する2泊3日の東北旅行の準備を2階でしていた。キャリヤバッグに衣類等を入れ、リックにカメラ、デジカメその付属品や資料等を机の前に座り詰め込んでいた。本震来襲、(後で解ったことだが午後5時56分である)思わず立ち上がった。後ろでは箪笥の上にあった置物、コケシ等が床に散乱、頭に落ちてこなくて良かったと思った。置時計の崩壊が後で確認されたが本棚も含め倒壊なし。机の上の棚にあるプリンターも健在、パソコンも使用していなかったはずと。ホッとしているとこに又余震、大きい。まだ2階の机の前で、持ち出し品の選択中であった。

しかしここからが問題、机の横にある2脚の洋服ダンスを手で押さえているのである。自分の方に倒れるのを防いだのかも知れないが一瞬なことでその判断は今理解できない、机の下等逃げるのが先と知っていたはずなのに。(しかし同類もいたと翌日の会話で大笑い。「台所で孫をテーブルの下へ避難させ自分は食器棚を手で支えていた。」と)階下からはワイフの避難を促す必死の声が大きい。揺れが少し治まるのを待って、電池、ラジオ、セーター、リックそれになぜか旅行には不用と一旦財布から出したお金をポケットに入れ2階を脱出階下へ、しかし貴重品は何も持ってはいなかったのである。ワイフにより玄関には年寄りが誘導されていた。階下の被害なし、ラッキーと屋外に脱出。

 更にラッキーなことは、本震の寸前まで夕食の準備でテンプラが揚げられていて、丁度揚げ終わり火が落とされていたことである。もちろんガス台やフロアーには鍋の油が散乱していた。途中だったらと思うと・・・・、火は怖い。

6時19分(携帯確認)、安否確認メールの一報は次男の嫁さん、ゼロ才児を抱えての行為に有難うと思った。東京も震度4とか後で知った。屋外待機で月夜での返信、まだ早かったせいか子供達との交信は出来、現状報告と全員無事を伝える。市内の親戚もメールで無事を確認した。携帯は旅行の準備で充電してありよかったと思った。余震の合間をぬって数回家に出入りしたが今思うと危険行為と反省している。年寄りには屋外待機は寒いが一瞬の行動が出来ない屋内は危険と継続、9時頃まで垣根の風のないとこで椅子に座らせ毛布を羽織っての避難、その後玄関待機、耐え切れず布団での就寝。

11時頃か家に入り、お菓子類は口にしたがまだ夕食を取ってないことから居間で、可搬式ガスコンロでお湯を沸かし簡単な夕食、明かりは来客用の大きな灰皿を利用し古き昔を思い出すロウソクを灯した。ガスコンロの青い火とロウソクの橙色が新旧対照的であった。まだ携帯電話、メールは使用できない、市内の公衆回線は相手が出ない。

12時、旅行社から電話明日からの旅行は中止、新潟からと言っていた。リダイヤルを繰り返したとか、息子が又状況を聞いてきた。大丈夫と伝え次男にも連絡を依頼した。念のため2階に上がりパソコンのスイッチを入れたが問題なく立ち上がってくれた。

1時頃か?着たまま、毛布に包まって寒さを堪え余震が来ないことを願い就寝。まだ電気は来ていない。疲れからか直ぐ眠れたようだ。

朝寒くて目が覚めた。何も起こっていないのを確認。電気は来ていた。千葉、東京、横浜とお見舞い電話、無事を喜びあった。灯篭の倒壊はこれから知るのであるが地震が日中で、庭で冬囲い中だったらと思わず身震いがした。

Date: Sat, 20 Nov 2004 16:46:44 +0900
From: 菅沢 重蔵 黒姫山の山頂下黒姫神社の石仏も倒れていた。

Subject: 倒れた石仏

  菅澤です。

 少し古くなりましたが、地震で倒れた黒姫山の石仏のことを記してみます。

 連日報道される被災地の悲惨な情景から逃れるようなおもいで、地震から6日後の10月29日、黒姫山登山を思いつきました。

 登山口は高柳側の磯之辺、白倉ともにだめで、大きく迂回して柏崎側の清水谷から登りました。登山口の駐車場までは先の7.13水害で路肩の崩れで車が入れず、20分ほど歩いてから登りはじめました。

 急坂を登って1時間ほどで白倉分岐、このあたりは紅葉がきれいでした。ここから山頂手前のところにある黒姫神社まで30分、尾根道のところどころにはに亀裂が走っていました。

 黒姫神社の前は広場になっていて、ここから15分の登りで山頂です。この登りにかかる右手に20数体の高さ1mばかりの石仏があるのですが、7体を残して全て倒れていました。2体だけが山頂側に、他は山麓側に倒れていました。横揺れは山麓方向が大きかったのでしょう。

 山頂では幾つかある小さな石塔の一つだけ倒れていました。山頂小屋の登山者名簿に10月23日の日付で上越市の4人の女性の名がありました。

菅澤 重蔵

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Date: Sun, 21 Nov 2004 15:13:37 +0900
From: 前沢 宣治 良寛と寺田寅彦の言葉

Subject: 中越地震の記録

中越地震に思う

地区の1泊2日赤倉温泉懇親旅行から帰宅して、楽しい旅の余韻がまだ尾を引いているときに、突如あの激震がやってきた。「地震だな」と思う間もなく、猛烈な揺れが襲ってきた。築40年を過ぎた箇所がある我が家は、みしみしと不気味な音を立てて振動した。あちこちで物が落ちる音がする。

 これはヤバイぞ。ただ事ではないと瞬間思った。火災にならないよう電源だけ切って外に飛び出した。

家内は近くのスーパーに買い物に行って、まだ帰ってこない。ガスなどの火種は今のところない。外に出るとすでに6時近くなので暗い。薄雲のかかった空に星が瞬いていた。近所の人たちもみんな外に出ている。電線や庭木などがぐらぐら揺れている。

 間もなく買い物から家内が慌てふためいて帰ってきた。足がすくんで自転車に乗っていても怖かったという。村内に一人暮らしをしている家内の母親を家につれてくるように言って、少し揺れが小さくなった頃合を見て、私は家に入ってみた。いざという時にはいつでも外に逃げ出せるようにした。

 電気はすでに停まっている。まず懐中電灯をつけた。頼りの懐中電灯は電池が弱って、あまり明るくない。長くつけていると電池が無くなるので、出来るだけ使わないようにする。代わりに仏壇にある蝋燭を使うことにする。仏壇のところに行ってみると、仏壇の中や周りは茶碗や花立が散乱し、めちゃめちゃだ。こぼれた水を雑巾で拭き、移動するのに邪魔にならないよう片付けた。

 少し太めの蝋燭に火を点け、家の中の様子を見ることにした。居間は思ったほど散らかっていない。テレビの上に飾っておいた小物の飾りなどは落ちているが、長押につるしてある額も落ちていない。台所に行ってみる。心配した食器棚などは異常なしだ。皿などが割れたら大変だ。やれやれとほっとした。次にパソコンのある自分の部屋に行く。パソコンが落っていないだろうか。ドアを開けてみて仰天した。パソコンラックの後ろにある書架が二つ倒れてラックにもたれ掛かり、中の本は床に投げ出されていた。

やられたとがっくりする。その間にも時々大きな余震がやってくる。片付ける余裕などない。

 やがて妻が今年米寿になる母を連れてきた。食事をとろうとしたところに地震が来たのだという。幸い家内の実家の被害は冷蔵庫が動いたり、多少物が落ちたりしたが大したことはないとのこと。一先ずほっとする。小さな揺れが続く中で三人で蝋燭の火で落ち着かない夕食をとった。時々余震が来る。万一があるので車庫から車を出してしばらく母親にはそこにいてもらった。

 電気が来ないので詳しい情報は何も分からない。余震は相変わらず続いていたが、夜も深まってきたので様子を見ながら寝ることにした。なんとなく寝付けないような思いであったが、その夜は家の中で寝た。後で聞くと、不安で家の中では眠れず、外で車の中で寝たという人たちもいた。

 昨夜は真っ暗で家全体の様子はつかめなかったが、翌日になって家の内外を見回ってびっくりした。

外の大きな石油タンクが倒れていた。大屋根の飾り瓦が落ちて下屋根の瓦が何枚か割れていた。至るところの壁が剥落した。特に親の代に建てた部分の二階の壁が見るも無残に剥がれ落ちた。昭和30年代までに建てた家屋は土台の構造もしっかりせず、塗り壁が多いために地震には弱い。我が家もその部類だ。

 昼頃掛かりつけの工務店から電話があり、被害状況を聞かれたので概況を話し、修理を依頼した。こんな時に電話をよこすとは、さすが商売だ。とりあえず寒くなるので倒れた石油タンクと屋根瓦の応急処置をしてくれるよう頼む。

翌日左官屋が来てタンクの土台作りをした。二日後に業者が来てタンクを取り付けてくれることになった。やれやれこれで寒い思いをせずに済むと安心する。

 確か午後二時頃だったかと思うが、電気がついた。テレビで今回の地震の震源地が中越の長岡近辺だということを知った。長岡、小千谷、特に山古志村などの被害がひどいという。山古志といえば、懐かしい思い出の地だ。教員駆け出しの頃山古志の中でも最も山深い種苧原という村にいたことがある。山奥だが、それだけに自然が美しい。あの村はどうなっただろうか。テレビの映像を見るたびに心が痛む。日を追ってテレビや新聞などが伝える情報で、この地震が引き起こした被害と影響は私たちの予想をはるかに超えたものだったことが分かって来た。

 無残にも押し潰された家や流れた土砂に押し流された田畑や道路を前に泣き崩れる人たちを目にして、言葉を失ってしまう。我が家の被害などはあの人たちのものに比べれば、取るに足らない。

地震は天災のひとつだ。日本は残念ながらこの恐るべき天災に出会う確率が最も高い国だ。地震といえば、すぐに思い出される先人の優れた言葉がある。一つはわが越後が生んだ傑物良寛が文政十一年(1828)に起こった三條大地震に遭遇したときの言葉だ。良寛は言う。「しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候、死ぬ時節には死ぬるがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」。これは人生を見透した達人の言葉だ。我々凡俗はこの心境にはなかなかなれない。しかしこの言葉の意味するところはいかなる困難に直面しても挫けるなということだろうと思う。

 被災地の人たちが苦しみに直面して泣きながらも、その後すぐに明るい顔で仲間たちと話し合う、あの気持ちが良寛の精神に通ずる靭さではないだろうか。

 もう一つの言葉。それはあまりにもよく知られた、寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉だ。まさに忘れた頃だ。人間の記憶は長持しない。それはまた希望の裏返しと言ってもいいのかもしれない。新潟地震でかなりの恐怖を味わいながら、すでにそのことを忘れている。いざという時に備えて電池を確認しておく。ガスの元栓なども締める。家具の倒壊を防ぐ設備をしておく。最小限必要な避難用具、貴重品などをまとめておく。こんなことが出来ていなかったという反省をさせられた。

 もうすぐ霰や小雪が降る季節がやってくる。被災地の方々が力を合わせてこの大きな自然災害を乗り越えて行かれることを心から祈りたいと思う。

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   前 沢 宣 治
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Date: Tue, 23 Nov 2004 22:05:04 +0900
From: 篠田 睦子 滞在時間40分位の短い時間の見舞。

Subject: 短時間の災害見舞い 小千谷市へ

    皆様お変わりございませんか。   篠田です。

 中越地震から一か月、生々しい爪後を残し、ようやく落ち着きはじめたようですが復興への道のりは程遠く感じられます。雪を前にしてどなたも被災地の皆様のことが脳裏から離れないことでしょう。

 「今私にできること」そんな自分がもどかしく、道路の回復を待って一日も早く小千谷の実家(弟)や親戚、寺、亡夫の墓を見舞うことが先ず私の務めかと考えてきました。未熟な運転、自己の健康が思いやられ、主治医の許可を得11/20日遅ればせながら短い時間の地震見舞いをしてきました。主治医に「そう言うことは早い方がいい・・・早く行ってあげなさい。」と勇気付けられ、13時即決行。

 ガソリンスタンドでは「291号線は通れないから高速で・・・」と言われ回り道を覚悟での運転でした。関越自動車道は一車線通行で50キロの制限、当然ながら安全運転への配慮が行き届いていました。

 工事用の車と作業員の懸命な姿、車窓からは土砂の崩落、亀裂の入った山肌が生々しく目に止まりました。シートや土嚢で補強され、防音壁、分離帯にも地震の強さが汲み取れました。

 小千谷インターで下車、街中へ入ると家屋の損傷、道路、電柱等の被害に地震の恐ろしさを実感いたしました。

弟の所は新開地、田んぼの埋たて地ですが、駅よりの山間部、東地区より比較的被害は少なかったようです。後始末に疲れきった夫婦、二人共赤ら顔。何時もと違う。弟のぎっくり腰そんな事が気がかりでしたが、お互いに無事を喜びあう事ができました。

 大工さんのチエックでは住宅は補強で住める事も分かりました。親戚の家では家が傾斜し、大量に運び出された壊れた家具、営業用のペイントの流失、主婦が家具の下敷きになるなどお見舞いの言葉に詰まりました。今も不安でテント暮らしとか。自衛隊のお風呂にも入れていただき、避難先での行き届いたサービスに耳を傾ける事が出来ました。寺は赤札が張られ、避難先が分からず残念ながらどなたとも会えませんでした。どこかに張り紙があったのでしょう。亡夫の墓は後ろへ倒れ、人力では手の施しようもなく、子供が破片だけ取り除いてきたとの事でしたが、親戚からシートを掛けてもらってありました。修復には寺の方針が待たれます。

 帰りは291号線の開通を知り小国峠を通り18時頃無事帰宅。道路は舗装がはがれ修復が間に合わないのでしょう。水溜りや砂利道にハンドルを握る手も硬く緊張感の連続でした。

 「健康が財産」「今私にできること」。わずか滞在時間40分位の短い時間の地震見舞いでしたが、糸のように結ばれている親戚同士、その大切さを痛感いたしました。

 体育館にはまだ1,000人もの方がたが避難され、仮設住宅の入居を待っているそうです。

これから迎える雪シーズン国を挙げて一日も早い復興を心から願って止みません。

     篠田 睦子
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