乾漆良寛坐像(模写)(1/100)
良寛(りょうかん)さんは、今から約240年前(1758)、 柏崎(新潟県)から少し離れた出雲崎(いずもざき)という町に生まれました。生まれた家は橘(たちばな)屋といって、幕府の金文(きんもん)高札(こうさつ)という重要な仕事を預かる立派な家柄でした。そういう家庭で大きくなったせいか、とてもボンボンで真っ正直な子として育ちました。(金門高札:模範となるような事を書き記し、人通りが多く、しかも見やすいような場所に高く掲げておく札所。今のお知らせ用「立て札」のようなもの)(図の像は作家不明、良寛生前の作で、本覚院にあったと言われている。良寛記念館蔵品になる以前は、安田靫彦画伯が愛蔵していた。 東京電力「良寛さん紀行」パンフより)

寝坊して父に叱られた時(2/100)
良寛の幼名を栄蔵(えいぞう)といい、素直で純真な子 でした。ある朝寝坊して父に叱らた栄蔵は、白い目をむいて父を睨(にら)みつけました。父に「そんな目で親を睨むとカレイになるぞ」といわれました。日が暮れても、栄蔵が家に戻らないので、家の者が手分けして捜しますと、暗くなった海岸の岩の上でじっと海を見つめている栄蔵の姿がありました。「栄蔵じゃないか?」と声をかけると少年は「おらア、まだカレイにならないか」と答えたそうです。
 「カレイかわいや、背中に目鼻、親をにらんだそのバチだ」(越後の子守り唄)


岩の上の栄蔵(3/100)
「栄蔵、おまえは一体そこで何をしているんだい」
「おっかさん 、俺はまだカレイになっていないかえ」と、聞き返す総領(そうりょう)息子の余りにも真剣な表情に、母親は思わず涙ぐみながら「大丈夫だよ」とだきしめるばかりでした。
(大正時代、西郡久吾「沙門良寛全伝」の伝える話である。)



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