和歌でわたりあう良寛と貞心尼( 63/100)
多忙な貞心尼でしたが閑(ひま)をみては良寛さんの庵を尋ねて、歌のやりとりに時間のたつのを忘れて、楽しいひとときを過ごすのでした。

  いづこより春はどこぞとたづぬれば こたへぬ花にうぐひすのなく     貞心

  君なくば千たび百度数ふとも 十づゝ十をもゝとしらじを      貞心
  いざさらばわれもやみなむこゝのまり 十づゝ十をもゝとしりなば   良寛

九木氏・木村家庵室の良寛訪問( 64/100)
良寛さんの学問の深さと、優れた詩や歌でようやく世間に認められるようになって、由之や貞心尼だけでなく資産家や文化人など多くの人たちが、五合庵を尋ねてくるようになりました。
良寛さんはその誰にでも、会ったわけではありません。
図は、良寛さんを常々尊敬していた画家の三森九木氏が五合庵を訪問したときのようすです。
自分について語らず、表面に出たがらない、良寛さんの姿を写しとった珍しいものだといいます。
九木氏自身が描いた良寛(六十歳前後)像の色紙の端(はし)に、良寛自筆の賛「袖裏の毬子値千金・・・・」という詩があります。(分水町良寛資料館蔵)

二羽の烏(65/100)
いつも黒そめの衣をきて、日焼けした真っ黒な良寛さんは、俗に「からす」ともいわれていました。
良寛さんも、「なるほど、自分に本当に似合った名前だ。」と思っていました。

  ・・・・(中略)・・・・人々なごりをしみて物語きこえかはしつ、打ちとけて遊びける中に、君は色くろく衣くろければ、今よりからすとこそまをさめ(申す)と言ひければ、げによく我にはふさひたる名にこそと打ち笑ひ給ひながら・・・・・・(後略)・・・・

  いづこへも立ちてを行かむあすよりは からすてふ名の人のつくれば   良寛

その烏の後追う子がらすがありました。

  山からすさとにいゆかば子がらすも 誘(いざな)ひて行け羽よわくとも    貞心

  誘ひて行かば行かめどひとの見て あやしめ見らばいかにしてまし     良寛

  鳶(とび)は鳶 雀(すずめ)は雀 さぎはさぎ 烏はからす 何かあやしき      貞心

その昔のことです。何とまあ、勇気のいることであったでしょう。二人の純粋さを示す証(あかし)です。

歌う貞心・返す良寛( 66/100)
歌を通して良寛さんと貞心尼の仲はますます深まるばかりでした。
七十歳を過ぎた良寛さんは、貞心尼の来るのを待ち続けることが多くありました。
文政十一年(1828)の初夏には、福島(長岡市)の閻魔堂に住む貞心尼を訪ねています。
そしてその秋には、今度は貞心尼が島崎(和島村)を訪れています。

  来て見れば人こそ見えねいほもちて にほふ蓮(はちす)の花のたふとさ  貞心

  みあへする物こそなけれ小がめなる 蓮の花を見つつしのばむ    良寛

  極楽のはちすの花のはなびらをよそひて見ませえ麻布(あさで)小衾(こぶすま)  貞心

  極らくのはちすの花のはなびらをわれにくやうす君が神つう   良寛

その後は、貞心尼は福島(長岡)を離れて柏崎の閻王寺(えんおうじ)に入った事情もあって、二人の仲は遠のくばかりでした。

  きみやわするみちやかくるるこのごろはまてどくらせえどおとずれのなき  良寛

  ことしけきむぐらのいほにとぢられみをばこころにまかせざりけり    貞心

遠くにあっても互いを思いやる心情がほのかに、におってきます。(「良寛をめぐる女たち」北川省一)

手まりを楽しむ良寛と貞心(67/100)
待ちに待った人、貞心尼が良寛さんのところにやってきました。
はやる気持を歌に託して、互いに心を確かめ交わし合う二人でした。

  うたやよまむ手まりをつかむ野にいでむ君がまにまになしてあそばむ   貞心

  歌やよまむ手まりやつかむ野にいでむ心ひとつを定めかねつも      良寛

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