絶筆論(71/100)
良寛さんの最後の文章(絶筆)?は何か。そのことについていろいろな説があります。
西郡(にしごうり)氏の「良寛全集」に載っているもの(長歌)が、それだといわれています。

  わくらはに 人と生(な)れるを うち靡(なび゛)き やまふの床に 臥しこやし 癒(い)ゆとはなしに いたつきの 日に日に増せば 思ふ空 安からなくに 嘆(なげ)く空 苦しきものを 赤らひく 昼はしらみに 水とりの 息つきくらし ぬばたまの 夜はすがらに 人のぬる うまいもいねず 垂乳根(たらちね)の 母がましなば かいなでて たらはさましを 若草の 妻がありせば とりもちて はぐくまましを 家とへば 家もはふりぬ 同胞(はらから)も いづちいにけむ つれもなく 荒れたる宿を 現(うつ)そみの よすがとなせば 一日(ひとひ)こそ たへもしつらめ 二日(ふたひ)こそ しぬびもすらめ あらたまの 長き月日を 如何にして 明しくらさむ すべをなみ ねをのみぞ泣く ますらをにして

淋しく悲しい思いがいっぱい詰まった歌です。
しかし矢張り良寛さんの本当の絶筆は、なんとしても貞心尼に贈った
             「裏をみせえおもてを見せて・・・・」という俳句と、
     「弟子たちへかたみの歌」と前書きのある
              「かたみとて何かのこさん春は花 夏ほととぎす秋はもみぢば」
という短歌の二首でしょう。(「大愚良寛」相馬御風)

良寛さんの葬列(天保二年正月八日)(72/100)
当日、野辺送りの人々は、木村家から火葬場までの三町(一町=109メートル)ほどの雪道を延々と続きました。
先頭が火葬場まで届いたのに後尾はまだ邸内に留まっていたといいます。
すべての人々に食を乞うて生きてきたに過ぎない一介の頭陀(ずた)僧のために、多くの人が集まりました。
亡くなった正月六日の夕方から一日おいた、八日の夕方の葬式でした。
その日は雪の降る越後のまだ松の内です。
情報手段の乏しい百五十年の昔、「良寛さまが亡くならっしゃたとさ」という噂が、わずか二日のあいだに越後全土を駆けめぐりました。
その早さと、それを聞いて取るものも取らず、少なからぬ香典や蝋燭や香などを懐にして、これだけの人々が駆けつけてきてくれたことを思うと、わたしはただただ驚き呆れ、ありがたさに涙が出ます。(定本『良寛游戯』北川省一より)

良寛上人御遷下(せんげ)諸事留帳(73/100)
和島村の能登屋木村邸内には、今もなお「良寛上人諸事留帳」が大切に保存されています。
それによると、六カ寺の助法寺院、十二カ寺の随喜寺院、二百八十五人におよぶ会葬者、お斎(とき)米壱石六斗(壱石=2.5俵)にいたるまで、細々(こまごま)と書き留められていす。
石碑志納者二十四人の記録もありました。

良寛の夜具の裂片(キレハシ)(74/100)
良寛の示寂(しじゃく)地、越後三島郡桐島村島崎・木村家には良寛さんの着ていた夜具の裂片(きれはし)が大切に保存されています。
浅黄の弁慶縞の木綿で、いたって粗末な物です。(「大愚良寛」相馬御風)

(註)昭和32年、海水浴にはまだ早い夏頃だったと思う。出雲崎全町あげての「良寛生誕200年」祭が催されました。
その時、当時の出雲崎小学校でこの「夜具の裂片」を見た覚えがあります。
あれが浅黄の弁慶縞の木綿というのかどうかは、わからりませんがが、ともかく風化していて、布というより薄い紙切れで、今にも千切れそうな粗末なものであったことを記憶しています。(とみ)
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