良寛、弟由之に諫言(かんげん)(81/100)
良寛と由之の仲については、傍目(はため)にもうらやましいほどのものでした。
滅多には他人のことについてはとやかくいう良寛さんではなかったのですが、弟を諫める言葉が残っております。

  人は三十四十を越えてはおとろへゆくものなれば、随分御養生可被遊候
  大酒飽淫は実に命をきる斧(おの)なり ゆめゆめすごさぬよふにあそばさるべく候
  七尺の屏風(びょうぶ)もおとろらば などか越ざらむ
  羅綾(らりょう)の袂(たもと)もひかば などかたへざらむ
  をのれほりするところなりとも 制セばなどかやまざらむ   すもり老    良寛

  沖つ風いたくな吹きそ雲の浦は わがたらちねの奥津城(おきつき)ところ

兄弟を気遺(きつか)う良寛
  余が郷に兄弟有り 兄弟 心各(おのおの) ことなる 一人は弁にして聡 一人は納(とつ)にして且(かつ)愚なり
  我れ其の愚なるを見るに 生涯 余 我れ其の聡なる者を見るに 到る処 亡命して趨(はし)る


晩年の貞心尼像(82/100)
貞心尼(寛政十年〜明治五年)は長岡藩士の娘。
七十五歳のうち約四十年を柏崎で住んでいました。
町の人々と和歌などを通じて親しく交わりました。
良寛和尚の歌集第一号ともいわれる「はちすの露」は、良寛研究の“原典”の一つと評されています。
長い柏崎在住だけに貞心遺墨は数多く、外護者ともいえる山田静里、極楽寺の静誉上人、関矢大八らと交流文書もあります。越後タイムス(平成四年十月十八日)より
墓は柏崎市常磐台洞雲寺の裏山にあります。
なお山門には「恋学問防(いかにせんまなびの道も恋くさのしげりていまはふみ見るもうし)」の碑があります。
墓碑には次のように刻まれています。

   来るに似て かへるに似たり 沖つ波 たちゐは風の吹くに任せて
    孝室貞心比丘尼墳
    乾堂孝順比丘尼
    謙外智譲比丘尼

遍澄和尚像(83/100)
良寛さんがその人の膝を枕に最後の息を引き取ったとされる遍澄和尚。
遍澄の入門を歓迎して良寛さんは歌を作っています。

  君と我れ僅かの米ですんだらば 両くわん坊と人は言ふらん
  自今以後納所は君にまかすべし 二合三合わけのよろしさ

信頼しきった二人の仲です。
遍澄は、享和元年(1801) 島崎に生まれました。
文化十三年(1816) 良寛さんを五合庵に訪ね、その法弟となりました。
良寛さんに奨め、五合庵から乙子神社の草庵に転住し、薪水のことにあたった。
文政九年(1826) 島崎の木村元右衛門に依頼して同氏の裏小屋に良寛さんを案内しました。
文化九〜嘉永三年(1856) 良寛さんの詩友及び交際のあった人々を訪ね、良寛さんの詩や、歌を収集して大いに研究しました。
明治九年(1876)九月十三日 眼疾後没 行年七十五、妙徳寺に墓碑があります。
(「良寛と法弟遍澄」桑原仁右エ門著)
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