戯れる良寛さん(87/100)

  遊びをせんやと生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ユル)がるれ
(『梁塵(リョウシ゛ン)秘抄』より平安後期の今様歌謡集)より

せがまれる良寛さん(88/100)
髪は蓬々(ホ゛ウホ゛ウ)、耳はにょっきりそば立つ奇異な坊さんに子供らは腰にぶらさがってきます。
彼らは、こちらが本気に遊んでやらなければ、決して寄りつきません。
身なりが整いすぎてもいけないのです。
身なりなどに破綻があってもそれは障りとはなりません。(「良寛幻像) 和田多吉」

 頭髪蓬々耳卓朔  頭髪 蓬々として耳卓朔(タクサク)なり
 納衣半破若雲畑  納衣(ノウイ) 半ば破れて雲畑の若(コ゛ト)し
 日暮城頭帰来道  日暮 城頭帰来の道)児童相擁す 西また東

鉢の子に雀(森田沙伊画伯御作)(89/100)
越後(新潟県)出雲崎 大黒屋「菓子包装紙」に良寛さんの鉢の子をあしらい、その鉢に雀を止まらせている絵が描かれています。
町の人は何時までも良寛さんを慕たい、何かにつけて良寛さんをもちだしています。
良寛さんは後の世まで多くの人の尊敬を受け、人々に受け入れられている様子がわかるような気がします。
そしてその包装紙には次のような難しい詩が書いてあります。

  者知能こ遠和閑(ハチノコヲワガ) 
  和春留礼騰毛止(ワスルレトモト)
  流非登者那之東留(ルヒトハナシトル)
  悲東者奈之波地(ヒトハナシハチ)能こ安者礼(ノコアワレ)

ソフィアセンターにある中村文庫(90/100)
もしも自筆稿本『はちすの露』が柏崎市立図書館の中村文庫の中に発見されなかったら、私たちは良寛と貞心尼の交流をほとんど知ることがなかったでしょう。
その名前の由来ですが、貞心尼が良寛とのやりとりの歌集を大切に持ち歩いていましたが、親しくしていた泰禅和尚(極楽寺の住職であったが、隠居して常福寺に住んでいた)の目に触れ、この歌集に名前がないのはおかしいといって山田静里(貞心尼の外護(ケ゛コ゛)者)を紹介されました。
山田静里の歌の中に『はちすの露』の由来があります。

  これをこそ真実(マコト)の玉と見るべけれ つらぬきとめしはちすばの露
(「良寛・その愛」 田村甚三郎より)
この『はちすの露』は、後に中村藤八のものとなり現在のソフィアセンター(柏崎市立図書館)の中村文庫の貴重な文化財の一部として保存されています。
その最初の出逢いはこうであった。「あつき時分は御かへり遊びさるべくと存じ候へば、どうぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」といって、貞心は夏の盛りに再び良寛を木村家に訪うたのであったが、まだ密蔵院から帰っていなかった。貞心はその折り持参した手作りの手毬と歌を木村家に託した。そして秋帰庵した良寛はさっそく返歌を貞心に書き送ったのである。(「良寛をめぐる女たち」北川省一より)これからが人も羨むつき合いが始まるのでした。
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