陽だまりホーム>>柏崎の情報「陽だまり」>>写真情報 製鉄遺跡現地説明会 下ヶ久保A、B遺跡 | ショリ田遺跡 下ヶ久保C、D、E遺跡
柏崎平野の南方に広がる丘陵地帯にある、軽井川南遺跡群には、奈良・平安時代から鎌倉時代まで(8世紀〜12世紀)の鉄生産関係の遺跡が19箇所に発見されている。
この約28haに及ぶ地域は柏崎フロンティアパーク(産業団地)造成工事で遺跡が発見され、平成15年から発掘調査が行われ古代製鉄コンビナートの全貌が明らかになりつつある。
遺跡の保存をめぐって論議されていたが、市議会に市長の見直し提案が否決されたので、下ヶ久保遺跡の一部1.400平方メートルを盛り土保存、残りを記録保存するにだけの計画になっている。
今回の現地説明会は遺跡群の北西部の谷間の約1,250平方メートルのショリ田遺跡。最初から繰り返して操業することを計画して作られた、古代の典型的な鉄づくりの姿を見ることが出来る。
計画では遺跡調査が終了するとこの遺跡は記録保存され、産業団地造成工事が実施されて消滅する。
説明会は8月28日この遺跡の調査が全部終わったわけではないが、製鉄炉跡を見ることが出来る段階で行われた。(調査が進むと製鉄窯跡を見ることが出来なくなる。) | |
南向き斜面に製鉄炉2基、木炭窯2基、廃滓場(はいさいば)2基が確認され製鉄に必要な施設が揃っている。 製鉄炉から流れ出た鉄滓(てつさい 製鉄の過程ででる不純物 金クソ)を谷川に流し落とした模様。 | |
製鉄炉と木炭窯の間に木炭置き場に使った建物が有ったらしい。 斜面を通行しやすいように通路が作られている。 | |
この遺跡の中心である1号製鉄炉。周りに排水路をめぐらし、雨水を避けるためか建屋の柱穴が見える。 半地下式竪型炉で地上部が製品(鉄)を取り出すために壊わされている。 砂鉄を1,200〜1,300度に熱しなければならないので、炉の奥には送風装置の踏み鞴があった。 平安時代の窯の様式で、製鉄の始まりは箱型炉で、次に半地下式竪型炉になり、生産量を上げるため大型にするために再び箱型炉に成るという。 | |
拡大写真 この製鉄炉は最初は外側の大きさだったが、内側に新しい炉壁を作るなど修復し何回も使用を繰り返したため次第に炉心部が狭くなり、ついに使用を止めたもの。 下部から鉄滓が流れ出た跡がある。 |
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左側の木炭窯は炭を焼いた形跡がない。 低い位置から地下を掘り進んで行き完成間近に上部の土が崩れ落ち使用できなかったと見られている。 左側の失敗の後、右側の地下式木炭窯が作られ操業した。右に通路が作られて木炭置き場につながっている。 この木炭窯1基だけで製鉄炉の操業を維持できる木炭を生産することは出来ず、この遺跡の上部の調査区域外に木炭窯遺跡がある可能性がある。 | |
木炭窯と製鉄炉との間に設けられていて木炭置き場と見られている。柱穴があり建屋があった。 | |
電気の配線のないプレハブの展示室に発掘された遺物が展示されていた。 | |
炉壁の破片は鉄滓と共に廃棄される。破片の中には炉壁の強度を出すため練り込まれたスサといわれる植物繊維が見られる。 鉄滓の出土した廃滓場により鉄滓の大きさや種類が明らかに違い、鉄滓を砕き鉄分の多い鉄滓を取り出した選別場のような形跡があるという。 | |
作業を主とした遺跡のためか土器の出土は少なかったそうだ。 炉壁の外側は焼けて赤茶色で、内側は鉄滓がついて黒い。 |
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