貞心尼歌碑・史跡


中村文庫 ソフィアセンター(柏崎市立図書館) 中村藤八
 中村文庫は、中村藤八翁が40年間にわたって蒐集した、柏崎刈羽郡関係の古文書、遺物、遺墨等3000点を、大正7年12月に図書館に寄贈した資料である。この中には、市指定文化財貞心尼筆の「蓮の露(はちすのつゆ)」のほか、貞心尼関係資料が含まれている。一部は柏崎市立博物館とふるさと人物館に常設展示されている。寄贈者の中村藤八翁は、嘉永6年8月、刈羽郡高田村(現柏崎市上方)に生まれ、柏崎物産会を設立、町会議員、郡会議員となり、文庫寄贈後の大正9年3月に死去した。

中村文庫の貞心尼関係資料 ソフィアセンター(柏崎市立図書館) 中村文庫室内部
 中村文庫中の貞心尼関係資料を列挙すると、貞心尼筆の「蓮の露」、「やけのの一草」、「柏崎閻魔堂の記」、「山田静里翁は…」、「関矢大之ぬしの…」、「極楽寺にて…」、「あとは人…」、「月前時島」、山田静里筆の「不求庵の記」、「貞心尼病中図」(静誉画の模写)、文書「中村藤八智譲尼聞き取り」、「浄業余事」等。
 この資料は過去数回の展示目録に収録されていると共に、ハイビジョン「蓮の露−海を愛した貞心尼」(8分34秒)、貞心尼−図書館所蔵遺墨」(18分)で観ることができる。

「蓮の露(はちすのつゆ)」 ソフィアセンター(柏崎市立図書館)
 貞心尼自筆の歌集。体裁は、縦24センチ、横16.5センチで和紙を袋とじにした冊子本である。表紙と裏表紙を除いて50丁・100ページからなっている。内容は良寛の略伝、良寛歌集、良寛・貞心唱和の歌と続き、このあとに不求庵(ふぐあん)のこと、山田静里(やまだせいり)翁のこと、良寛禅師戒語、蓮の露の命名のことなどが、全て貞心尼の筆によって書かれている。天保6年5月に完成。良寛没後4年目に当たる。中村藤八翁が鬼集した「中村文庫」中にあり、昭和50年に市の指定文化財となる。
※閲覧には数種類出版されている複製本が利用されている。
また、ビデオ2本で視聴できる。

「蓮の露」歌碑 ソフィアセンター(柏崎市立図書館庭)
 故中村昭三氏が図書館の竣工記念に建立寄贈した歌碑。碑高200センチ、幅170センチの自然石に、貞心尼筆の「蓮の露」から、貞心尼と良寛禅師の唱和の歌が刻まれている。
 ※かっこ内は図書館で補記したもの

       者じめて安ひ見奉利 て 貞   (はじめてあいみたてまつりて)
   き美尓閑久安悲見留許東能有礼しさも (きみにかくあいみることのうれしさも
   未堂散めや良ぬ由め可東處おも布                まださめやらぬゆめかとぞおもふ)
       御可へし           師
 由め能世に閑川ま東呂見天由めをま多  (ゆめのよにかつまどろみてゆめをまた
 閑当留毛由面も所礼可未耳へ                     かたるもゆめもそれがまにまに)

碑裏面には次のように記されている

       蓮の露 歌碑
   晩年の良寛と貞心尼の初相見から4年の魂の
   交流そして示寂を、みとるまでをよみかわした
   『はちすの露』は、二人の誠の玉の輝きである
   初の良寛歌集で、貞心尼のこの遺墨は中村藤八に
   より世に伝えられ、中村文庫に保存される
         平成8年4月1日
                      中 村 昭 三
「蓮の露」歌碑

「托鉢貞心尼像」   ソフィアセンター(柏崎市立図書館庭) 「托鉢貞心尼像」
 柏崎良寛貞心会(田村甚三郎会長)が、貞心尼生誕200年を記念し、市内外700余人の賛同を得て、平成9年11月13日に建立した立像。制作は、富山県高岡市の石黒春海氏のイメージ画により、夫の孫七氏が青銅鋳造したものである。台高60センチ、像高180センチ。題字は市内の書家白倉南寉氏の揮毫。同所に向かい合って建てられている「蓮の露歌碑」は、貞心尼の墓地洞雲寺に向かい、この貞心尼像は、遠く良寛の地、出雲崎を望んでいる。

釈迦堂(跡)  東本町1丁目16番  釈迦堂(跡)
 貞心尼が10年間住んでいたお堂跡。貞心尼は、天保12年44歳の時洞雲寺第25世住職泰禅和尚について得度し、この釈迦堂の庵主になったが、嘉永4年54歳の時、長岡へ父の墓参りに出かけた留守中に、柏崎大火に遭いこの堂を焼失してしまう。「来て見ればしらぬ野はらとやけはてて 立ちよるかげもなきぞかなしき」(貞心尼筆「焼野のひとくさ」柏崎市立図書館所蔵より)現在この地は、貞心尼を慕う有志によって昭和57年10月に「良寛・貞心尼唱和の歌碑」が建てられ、繁華街裏の小さな憩いの場となっている。

不求庵(跡)   西本町1丁目10番14号あたり 不求庵(跡)
 貞心尼が嘉永4年54歳のころから、明治5年75歳で亡くなるまで、終生のすみかとなった庵。貞心尼はそれまで、荼毘小路(だびこうじ)の釈迦堂(東本町)に住んでいたが、嘉永4年の柏崎大火で堂を失う。しかし、貞心尼の歌仲間である町の名家=山田静里翁等のはからいで、不求庵(ふぐあん)が建てられた。場所は広小路真光寺(若葉町極楽寺末寺)の境内にあったが、その後の大火で焼失し、今は寺もなく拡幅された道路脇に「貞心尼不求庵跡」の標柱と案内板によって知るのみである。

洞雲寺   常盤台5番1号 洞雲寺
 曹洞宗の寺院で、宝竜山洞雲寺(とううんじ)。貞心尼は、この洞雲寺第25世の住職であった泰禅和尚(たいぜんおしょう)から、天保12年44歳の時正式に得度を受けた。泰禅和尚は、鳥屋中沢の出身、貞心尼より2歳年長で心竜・眠竜尼の兄弟である。心竜・眠竜姉妹は、貞心尼が仏門に入った時の最初の師匠で、番神閻王寺(ばんじんえんのうじ)の庵主であった。夏なお涼しき参道から参門をくぐると、左手裏山墓地登り口に良寛・貞心唱和の歌碑があり、丘の上に貞心尼の墓が安置されている。

貞心尼墓   洞雲寺 常盤台5番1号 貞心尼墓
 曹洞宗洞雲寺(とううんじ)の裏の丘の上に安置されている。墓碑中央に「孝室貞心比丘尼墳」右に貞心尼辞世の歌、左に「乾堂孝順比丘尼 謙外智譲比丘尼」と弟子の尼僧の名が刻されている。良寛禅師の病気看病の際、貞心尼が「くるに似てかえるに似たりおきつ波」と歌いかけたところ良寛禅師が「あきらかりけり君がことのは」と下の句をついだ事があった。この下の句を「立居は風の吹くにまかせて」と置きかえて辞世とした貞心尼は、良寛禅師の面影を終生抱き続けていたといえる。

「来るに似て 帰るに似たり おきつ波
               立ち居は風の 吹くにまかせて」

歌碑「良寛・貞心尼唱和の歌」   洞雲寺 常盤台5番1号 歌碑「良寛・貞心尼唱和の歌」
 貞心尼のお墓がある洞雲寺境内にある歌碑。
歌は「恋学門妨 貞心 いかにせむまなびの道も恋ぐさの しげりていまはふみ見るもうし   良寛  いかにせんうしにあせすとおもひしも 恋のおもにを今はつみけり」。
良寛の歌は、牛が汗をかくほど学問をしようと思ったのに、今は恋の重荷を背負っている、の意。建立は平成3年11月4日。高さ約2メートルの千種石にやげん彫りで仕上げられている。書は、建碑者故中村昭三氏の所有で2首とも貞心尼の筆。中村昭三氏は、柏崎市立図書館中村文庫の寄贈者中村藤八翁の孫にあたり、詩人中村千栄子女史は令妹である。

極楽寺   若葉町2番1号
  浄土宗の寺院。貞心尼が晩年過ごした不求庵は、極楽寺末寺の真光寺境内の一隅にあった。不求庵時代貞心庵は、極楽寺第28世静誉(じょうよ)上人からいろいろと援助を受けている。静誉上人は、照阿(しょうあ)・英舜(えいしゅん)とも号し、和歌・漢詩に精通し、画に優れていた。年は貞心尼よりやや若く、明治13年に72歳で遷化されている。当寺には、貞心尼筆の和歌560種余りを載せる、歌集「もしほ草」をはじめ、上人宛の書簡等数々の貞心尼の遺墨が保存されていると共に、上人が描いた、貞心尼晩年の病中の肖像画が今も所蔵されている。

閻王寺(跡)   番神1丁目1番15号の番神公会堂付近 閻王寺(跡)
 貞心尼剃髪の地。貞心尼は幼名をマスといい、長岡で生まれる。17歳の時、医師と結婚するが5年にして離縁し、実家に帰る。文政3年23歳の時、下宿新出(しもじゅくしで=番神町)にあった西光寺の末寺の閻王寺(えんのうじ)という尼寺で、心竜・眠竜尼姉妹の弟子となり、仏門に入り剃髪する。マスが貞心尼として新しい人生を送る出発点となる。ここで29歳まで修行を積み、長岡の福島閻魔堂へ移るが、44歳の時再び柏崎の地にもどり永住する。今、閻王寺の昔をしのぶなにものもないが、貞心尼の愛したいさざ川のせせらぎと日本海の風光は変わらない。

駅通り 駅通り 歌碑
 柏崎駅北口からの日本海に抜ける間にある駅仲商店街と、ニコニコ商店街通りには、貞心尼の歌碑が次々と立ち並んでいる。国土庁の地域個性形事業で歩道が整備された後、地元の要望により、 県が貞心尼歌碑の建立等を実施した事業で、平成5年12月には8基が、その後4基が建てられた。 歌は「もしほ草」、「やけのの一草」、「蓮の露」から選んでいる。8基は「貞心尼の歌碑解説書」に、12 基の写真は「良寛」第27号に収録されている。



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