貞心尼 年譜 |
※年齢;生まれた時を1歳として計算している貞心尼研究者が多いのでそれに従う。
元 号 | 西暦 |
年齢 | 解 説 |
寛政10年 | 1798 | 1 | (月日不明)長岡藩士奥村五兵衛(5代)の娘として生まる。幼名″ます″。幼にして母親と別る。 |
文化6年 | 1809 | 12 | 乳母にともなわれて柏崎に遊ぶ。中浜の金比羅さん脇薬師堂から海山全町を見望して「このような所で学問をしたい」と言う。 |
文化11年 | 1814 | 17 | 北魚沼郡小出島龍光村(現堀の内)の医師関長温(不詳〜1827)に嫁す。 |
文政3年 | 1820 | 23 | 3月、夫長温と離別し生家の長岡に帰る。その後、柏崎在、下宿(しもじゅく)の閻王寺(えんのうどう)で剃髪し尼僧生活に入る。心竜尼(不詳〜1840)、眠龍尼(不詳〜1838)の姉妹尼の弟子となる。 |
文政9年 文政10年 |
1826 1827 |
29 30 |
3月、長岡在福島閻魔堂に移る。この秋、良寛の歌の弟子となる。良寛69(70)歳。 |
天保2年 | 1831 | 34 | 1月6日、良寛禅師示寂す。74歳。 |
天保4年 | 1833 | 36 | 3月、良寛禅師の墓碑が建立される(和島村島崎隆泉寺)。 |
天保5年 | 1834 | 37 | 小出の雪堂なる人に依頼し、良寛禅師の肖像を描いてもらい、その礼に良寛の手紙をやる。 |
天保6年 | 1835 | 38 | 5月1日、″蓮の露″(はちすのつゆ)完成する。 |
天保9年 | 1838 | 41 | 長岡新屋敷町広井伝佐衛門の娘が6歳で弟子となり孝順尼という(1832〜1895)。 4月15日、眠竜尼死去。 |
天保11年 | 1840 | 43 | 6月28(29)日、心龍尼死去。 |
天保12年 | 1841 | 44 | 3月、正式に洞雲寺(とううんじ)25世泰禅和尚(1796〜1859)について得度をし、釈迦堂の庵主となる。 |
天保14年 | 1843 | 46 | 泰禅和尚が釈迦堂に訪れて、良寛禅師の吟歌集をみて絶賛する。 |
嘉永4年 | 1851 | 54 | 4月21日、柏崎大火により釈迦堂も類焼す。この時貞心尼達は長岡に行っていて不在であった。 関矢大之方へ10日余り身を寄せる。 5月、広小路(ひろこうじ)妙蔵寺内の観音堂に住す。 9月、山田静里(1784〜1862)等より広小路真光寺(しんこうじ)脇に不求庵がたてられ、終生のすみかとなる。 この年に″焼野のひと草″が書かれる。 |
安政 | 安政の頃、山田重弘(静里)主盟の歌会盛ん、参加。会者は他に山田重世、山田重秋、山田貞一、市川行貞、市川行雄、小熊茂樹、小熊茂雄、西巻敬技、西巻敬孫、星野輝直、吉田尚寛、山岸真杭等々。 | ||
安政6年 | 1859 | 62 | 5月14日、長岡屋敷町高野次郎兵衛殿の娘が智譲尼(不詳〜1932)と改め、8歳で弟子入りす。 12月8日、剃髪の師、泰禅和尚遷化、64歳。 |
万延元年 | 1860 | 63 | 3月、歌友星野輝直(8代藤兵衛)死去す、36歳 |
文久2年 | 1862 | 65 | 6月16日、山田静里(方寸居翁)が死去す、79歳。 |
慶応元年 | 1865 | 68 | 良寛詩集を出版するために暮頃より上州前橋龍海院蔵雲和尚(ぞううんおしょう)が訪れ、それからしばしば手紙のやりとりがあった。 |
慶応3年 | 1867 | 70 | わが国最初の良寛詩集「良寛道人遺稿」(蔵雲編・江戸尚古堂)刊行される。 |
明治2年 | 1869 | 72 | 3月27日夜、2人の盗人が不求庵にはいる。 6月12日、蔵雲和尚死去、57歳。 |
明治4年 | 1871 | 74 | 5月21日、歌友小熊茂樹死去。 |
明治5年 | 1872 | 75 | 2月11日、貞心尼不求庵で死去、75歳。医師は、矢代文卿。 |