藍澤南城 年譜

この年表は、『南城先生年譜』(村山敬三氏著)の内容を転載したものです。

元 号 西暦
年齢
解     説
寛政4年 1792
1歳
八月二十日、藍沢北溟の長男として生まれる。父は刈羽郡加納村(かのうむら)の人、同村の寺沢石城に学び、小千谷片貝(かたかい)の郷塾朝陽館塾長。母は南条村(みなみじょうむら)関治五兵衛の長女班(はん)。南城、名は祗(ぎ)、字は子敬(しけい)、幼名文蔵(ぶんぞう)、通称要輔(ようすけ)、鉢山(はちざん)、抜山(ばつざん)と号し、のち南城と改めた。また、五輪山人、三友斎の号も使った。
寛政9年 1797
6歳
十月八日、父北溟が片貝の朝陽館で病没、四十二歳。母と共に、母の実家、南条村関氏に身を寄せる。十月十二日、妹佐和生まれる。
享和3年 1803
12歳
この頃からしばらく片貝の朝陽館で皆川葵園(みながわきえん・字は理卿)に学ぶ。
文化6年 1809
18歳
この頃江戸に出て葛葵岡(かつきこう=松下一斎)の青蘿館(せいらかん)で折衷学を学ぶ。葛葵岡の師は、父北溟も共に学んだ片山兼山。眠くなると水をかぶって勉学に励んだ。仲間から「呑蠧仙(どんとせん)」(本のしみまで食べてしまうほどの読書好き)と呼ばれる勉強ぶりであった。二十歳ころ既に師友の間に詩の才能を認められた。
文政2年 1819
28歳
秋、江戸より帰郷。『藍氏漫筆』を書き始める。
文政3年 1820
29歳
南条村に学塾三餘堂を開く。この年の入門者は二十五人、以後毎年平均十七名余の入門者があり、死去するまでの入門者の延べ総数は七百二十九名。夏、『藍氏漫筆』成立。
文政4年 1821
30歳
江戸遊学中を中心としてこの頃までに「実録」「実況」を重んじる、独自の詩観が確立。
文政6年 1823
32歳
この頃か、刈羽郡高柳村山中の石塚広右衛門の長女リキ(理幾)と結婚。漆原銀蔵(小千谷、門人)に求められ、「越女織(えつじょちぢみをおる)の詞」を作る。
文政7年 1824
33歳
七月、松之山に行く。佐藤琢治(三条、門人)が京都に行くのを送る。片貝の佐藤貞太郎(後に入門)の新婚を祝う。神子島逸蔵(三条、門人)が京都に行くのを送る。
文政10年 1827
36歳
六月、『読国語』二巻が成立。七月、『啜茗談柄(せつめいだんぺい)』が成立。七月十六日、二女佐知、生まれる。長女は夭折。この頃特に釣りを好む。釣った魚は池に放った。
文政12年 1829
38歳
この頃、鈴木牧之の六十歳の賀詩を作る。
天保2年 1831
40歳
この頃か、田沢の勧励和尚が「峨嵋山下橋」と題する橋柱(宮川海岸に文政八年漂着)の拓本によって題詠を求めたのに応じて、七言古詩を作る。
天保3年 1832
41歳
藍澤太郎次(加納、門人)が江戸に行くのを送る。仁保宗俊(脇野町、門人)から白醴(甘酒)を贈られる。『三餘集』巻一(詩百二十七首、散文一編を収録)成立か。この頃居を移し、三餘堂を新築か、「三餘堂新成上梁文」を作る。
天保4年 1833
42歳
南蒲原郡仲島桃岐翁の八十賀詩を作る。豊前の古澗禅老師が来訪。門人の仁保宗俊(脇野町)、京都で病死すとの知らせを得る。三条の佐藤淳庵の四十賀詩を、その子門人の琢治に求められて作る。門人の本間林蔵(谷戸)が江戸に行くのを送る。蒲原郡粟生津の村長長谷川氏に求められ、粟生津村の神祠に題す。
天保6年 1835
44歳
苗字御免。中島桃岐翁が来訪。岡野町の村山氏の庭園を詠む。門人の関矢仲雍(魚沼並柳)、野沢雄助(小千谷)が来訪。
天保7年 1836
45歳
貧しいながらも書物千巻を貯え、つつがなく四十五歳の新春を迎える。五十嵐儀平(土川、門人)今井伝吾(今井鏡洲の子、柏崎、門人)が江戸に行くのを送る。阿部大四郎(渡部、門人)来訪。中条新田村長、星野仲翼が梨の接木をしてくれる。七月十四日、蒲原方面への旅に出る。寺泊、新潟、中条、三条、小千谷を回る大旅行であった。訪れた主なところは、升田元良宅(石地)、石原助作宅(寺泊)、阿部大四郎宅(渡部)、国上山寺、大蓮寺(中島)、長谷川子善宅(粟生津)、宮路律治宅(中野)、中沢勇治宅(法華堂)、田中吉宅(吉田)、前田永観宅(坂井)、長谷川氏宅(藤寄)、本興寺(大淵)、佐藤琢治宅(三条)、渡辺仲徳宅(山王)、浄恩寺(指出)、中島桃岐宅(中野西)、星野仲翼宅(中条新田)、竹山子功宅(熊の森)、称念寺(与板町、槇原)、河内三井宅(脇野町)、山田氏宅(脇野町、七日市)、願誓寺(深沢)、高頭七蔵氏宅(深沢)、久保田氏宅(小千谷)、五十嵐掃部宅(土川)、長谷川氏宅(塚野山)。小千谷の久保田氏宅では内藤鐘山にも会う。橘泰舒が江戸に行くのを送る。小林孝則が芋川に帰るのを送る。
天保8年 1837
46歳
正月、山崎右助(美中)入門。六月、頸城地方への旅に出発。訪れた主なところは、本広寺(筒石)、勧農亭(大野村)。「民難篇、父老に社倉を建てんことを勧む」成る。「片貝の佐藤翁六十寿序」成る。十二月、『三餘集』巻二(詩百十七首、散文一編を収録)成立か。この年の前後数年の間に、「虎踞斎の記」(北蒲原郡藤寄の長谷川氏)、「無逸堂の記」(三島郡塚野山の長谷川氏)、「深沢清泉山の記」(三島郡深沢の願誓寺)、「槇原得往山後園の記」(三島郡槇原の称念寺)、「高頭七蔵恭倹の記」(三島郡深沢、村長高頭七蔵)成る。
天保9年 1838
47歳
阿部純亭(国上村渡部、門人)が父定珍(良寛の親友であり、庇護者でもあった)と母とに従って、西国巡礼の旅に赴くのを送る。定珍はこの旅行中土佐で病没。『三餘集』巻三(詩百六十三首、散文四編を収録)成立か。
天保10年 1839
48歳
秋、『周易索隠』六巻が成立。この頃、中島桃岐翁八十八の賀詩、芋川の小林翁七十の賀詩を作る。
天保11年 1840
49歳
夏、『三百篇原意』十二巻が成立。槙鼻の解良母氏七十賀詩を作る。
天保12年 1841
50歳
「桃岐翁略伝」(南蒲原郡中野西の中島勝興)成る。『三餘集』巻四(詩九十四首、散文十五編を収録)成立か。
天保13年 1842
51歳
冬、肺を病み、咳や痰に苦しむ。「大雪の嘆」成る。この頃、「飯塚知義翁六十寿序」を作る。この頃、田沢の勧励和尚の求めに応じ、その『行餘篇』の為に「峨嵋山橋歌詠集の序」を作る。この頃、旅行中の片山格(述堂、朝川善庵の子、折衷学)が数日宿泊する。この年の前後数年の間に、「清福斎の記」(三島郡塚野山の長谷川迪光)、「貞観堂の記」(刈羽郡岡野町の村山氏)成る。この年か翌年に『三餘集』巻五(詩九十首、散文十編を収録)が成立か。
天保14年 1843
52歳
肺の病気がよくなる。田沢の勧励和尚が越後の碑銘を集め、その「越後碑銘集」を贈られたことに対して謝詩を作る。「詩謎の記」成る。「南条城主略係」、「落歯の嘆」、「村山翁六十の賀詩」を作る。『唐宋絶句抄』一巻が成立。『三餘集』巻六(詩四十五首、散文十九編を収録)成立か。
弘化元年 1844
53歳
玄妙禅尼(妹佐和)、観音庵を南条故墟(南条城跡)に移す。「永観堂の記」(古志郡筒場の安藤氏)、「正脩堂の記」(刈羽郡新道の飯塚氏)、「葛覃亭の記」(小千谷の山本氏)成る。十二月、『三餘集』巻七(詩八十二首、散文十一編を収録)成立。
弘化2年 1845
54歳
母の七十の賀を喜ぶ。羽政五郎(門人)が江戸に行くのを送る。丸山啓三郎(門人)から飛騨山中より採れた渾金石を贈られる。中沢卯左衛門(門人)の死を悼む。与板の猶竜師(門人)来訪。安藤翁の六十賀詩を作る。片貝に赴き、七月十三日北溟碑を拝す。有り金をはたいて山の土地を買う。吉田玄忠(柏崎、門人)の死を悼む。日尾荊山(瑜、折衷学)が来訪。秋、岡野町の貞観堂を訪れる。十月、子供を連れて蕈採りをしたり、池浚いをしたりする。冬至には例によって塾生たちに宴会を許すが、この年の民情を考えて酒量を減らさせる。「断酒行」を作る、以前から酒を禁じていた。「▲女の嘆き」成る。この頃、「淳風堂の記」(三島郡小阪の竹内氏)成る。十二月、『三餘集』巻八(詩百四十五首、詞二首、散文二編を収録)成立」か。
弘化3年 1846
55歳
来客は多くなったが依然として貧しく、機織りをして妻を助ける老母を大切にしていこうという思いで新年を迎える。光賢寺が再建され、その祝詞を書く。足を悪くし、歩行、正座が思うに任せぬようになる。長谷川鷹治(塚野山、門人)が安座のための長寿台を贈ってくれる。六月、七月、日照りで蒸し暑く、農夫の心境を思って雨の降らんことを祈る。八月、妻リキ(理幾)没、四十七歳。夫人を失った悲しみを五言五詩二首に述べる。また、後に「落花に対して感を書す」を作る。詠物詩を多く作る。飯塚氏(柏崎)の新婚を賀す。十五年前に手に入れ、植えた寒菊がこの年には里全体に広がる。父北溟の五十周年忌をする。「詩評」成る。帯刀御免。『三餘集』巻九(詩八十五首、散文二編を収録)成立か。
弘化4年 1847
56歳
柏崎比角の丸山源蔵の娘リエと再婚、「継娶行」を作る。夫人は三餘堂で裁縫を教える。佐藤貞太郎(片貝、門人)から、茶瓶と印籠を贈られる。長く酒を止め、茶を飲むのが楽しみであった。足の病気もよくなり、春には山に遊びに出たりする。長谷川元輔(塚野山、門人)来訪。藍澤伊作(加納、門人)が糸魚川に行くのを送る。杉本子纉(蒲原下中野、門人、本姓宮路氏)来訪。萩野熊三郎、大助、鉄之助(蒲原板井、三人とも門人)の兄弟が坂井に帰るのを送る。山本順次(小千谷山本、門人)来る。仁保泰蔵(脇野町、門人)が京都に行くのを送る。延沢恒吉(引岡、門人)来訪。女婿を亡くすと聞き、賦して慰める。長谷川子顕(粟生津、門人)来訪。大みそかには塾生も帰郷し、母は囲炉裏のそばで眠り、妻は茶を入れ、娘はそばにいて物語を聞く。『古文尚書解』をこの頃から書き始める。「竜門舎の記」(柏崎、閻王堂の今井氏)成る。粟生津の長谷川翁の遺品を得て、翁の死を悲しむ。『三餘集』巻十(詩百二十首、散文五編を収録)成立。
嘉永元年 1848
57歳
見田和介(江戸八王子)来訪。『中晩唐七絶抄略解』が成立。
嘉永2年 1849
58歳
一月十一日、妻リエ、難産のため没、「悼亡篇」を作る。出産した女子静は、文久二年十四歳で没。三十年前を回想し、江戸雑詠二十首を作る。八月十二日、門人の山崎右助(美中、朴斎)を二女佐知の婿養子に迎える。朴斎三二歳、佐知二三歳。
嘉永3年 1850
59歳
村山庄吉(魚沼水口、門人)が江戸に遊学するのを送る。佐藤琢治(三条、門人)がその子と共に来訪。この頃、「正徳堂の記」(魚沼並柳、関矢氏)、「飯塚氏略譜}(新道)を作る。『三餘集』巻十一(詩百五十二首、散文四編を収録)成立か。
嘉永4年 1851
60歳
熊谷修斎(長岡千手、門人)が京都に行くのを送る。神子島逸蔵(三条、門人)の死を悼む。
嘉永5年 1852
61歳
中頸城郡米山村の木村頼右衛門の長女リカ(理加)と三度目の結婚。リカ(理加)四十四歳。この年から絵を学び始め、その山水画に題して画讃の詩を作ることが多くなる。蒲原鴻の巣村の「幸田翁七十祝詞」を作る。
嘉永6年 1853
62歳
二月七日、母班死去、七十八歳。「居難篇」を」作る。前田耕太郎(蒲原坂井、門人)来訪。『三餘集』巻十二(詩百八十首、散文二編を収録)成立か。
安政元年 1854
63歳
関矢升太郎(魚沼並柳、門人)が寒熊肉を贈ってくれる。この頃「西野山本氏墓碑」、「柏崎閻王堂碑」成る。『三餘集』巻十三(史六十七首、散文七編を収録)成立か。
安政2年 1855
64歳
家の屋根を葺き直す。中沢茂作(鯖石飛岡、門人)の死を悼む。松岡山老師来訪。八月三日、頸城地方への旅行に出発。黒岩、米山、五智、福島、黒井を経て帰る。松翠堂、濃陰堂などを訪れる。
安政3年 1856
65歳
大矢半次(田塚、門人)来訪。斎藤謨から木綿八尺を贈られる。毛利半山(加賀の人)を送る。この頃「阿部緝字号の説」成る。十一月、いままでの詩より五百篇を抄録した、刊本『南城三餘集』の自序を作る。出版は安政五年ころか。
安政4年 1857
66歳
飯塚延長(新道、門人)が江戸から帰り、江戸の様子を聞く。関矢升太郎(魚沼並柳、門人)の「遺物名勝考」四巻を得て喜ぶ。四月に小千谷の山本氏を訪れ、行くときに小阪の涼風堂、帰りに塚野山の長谷川氏に寄って帰宅。八月には岡野町の村山氏、石塚氏を訪れて帰る。『三餘集』巻十四 (詩九十二首、散文十編を収録)成立か。
安政5年 1858
67歳
「山中問答」成る、晩年の心境を記す。飯塚次郎吉(新道、門人)が江戸に行くのを送る。熊谷倫斉(長岡千手、門人、修斎の弟)藍沢伊作(加納、門人)の死を悼む。『三餘集』巻十五(詩百九十一首、散文一編を収録)成立か。
安政6年 1859
68歳
『三餘集』巻十六(詩五十八首を収録)成立か。
万延元年 1860
69歳
『三餘集』巻十七(詩四十首、散文六編を収録)成立か、最後の詩は「長春」。三月一日没。

主な参考資料
・『三餘集』(新潟県立図書館)
・『三餘雑著』(新潟県立図書館)
・『藍沢南城と三餘詩抄』
・『柏崎文庫』関甲子次郎(柏崎市立図書館)
・『新潟県史 資料編11 近世六』
・『藍沢南城』渡辺秀英(『国語研究』第1集所収)
・『柏崎の史跡今昔』前沢潤
・『藍沢南城 詩と人生』内山知也
・『三餘堂弟子籍』(新潟県立図書館)
・『神中日記帳』藍沢敬一
・『藍沢三代記』
・『新潟県史 通史編5 近世三』
・『柏崎市史 中巻』

・『藍沢南城』渡辺秀英(『新潟県人物群像5 究』所収)
・『南城三餘私抄』目崎徳衛
(村山敬三)

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