藍澤南城と三餘堂
<系  図>
藍澤北溟
初代塾主 南城
二代塾主 朴斎(養子)
塾再興 雲岫(敬一)
誠一
誠治
 藍澤南城は、名を祗、字を子敬、通称を要輔といい、寛政四年(一七九二)、三島郡片貝村(さんとうぐん・かたかいむら=現在小千谷市)の朝陽館の教授であった藍澤北溟(仲明)の長男として生まれた。同九年、父が病没したため、母の郷里である刈羽郡南条村(かりわぐん・みなみじょうむら=現在柏崎市)に移った。
その後、一時朝陽館に学んだが、十五歳の時に江戸に出て、父と同門の松下一斎(葛葵岡=かつきこう)の葛山塾で折衷学を学んだ。文政二年(一八一九)郷里に戻り、翌年、学塾をこの地に開き、三餘堂(さんよどう)と名付けた。三餘とは、年の餘りの冬、日の餘りの夜、時の餘りの陰雨を学問の好機とするという意味で、在野の儒学者として、生きた南城の考え方を端的に表した言葉といえる。
 南城の質実な学風、厳格な教えが人々に慕われて、越後の諸郡からはもとより、会津・能登・備前等からも門人が参集した。文政三年より万延元年(一八六〇)までの門人録には、七二三名の門人が記されている。後年、三餘堂は明治政府から蒲原郡粟生津村(あおうずむら=吉田町)の長善館(ちょうぜんかん)と並び、北越の文教を振興した「私学の双璧」と認められた。(なお、「長善館学塾資料」は昭和四十二に県文化財に指定されている)。
 詩を好んだ南城は、生涯に二、〇〇〇編に及ぶ詩作を試みた。その内から精選されたものが、上下二巻の『南城三餘集』として三餘堂から刊行されている。開塾以来、ほとんど南条の地を離れずに教育に没頭した南城は、万延元年(一八六〇)、六九歳で没した。
 南城没後、三餘堂は養子朴斎(ぼくさい・名はよしなか=美中)によって引き継がれた。その後、明治五年(一八七二)、学制の公布に伴い塾は閉鎖されたが、南城の孫の雲岫(うんしゅう・名はけいいち=敬一)は再興を期して、明治二十七年四月に藍澤義塾を発足させた。藍澤義塾は明治三十年まで続いた。
南城 朴斎 雲岫
南 城 朴 斎 雲 岫

                                                 参考「新潟県文化財指定説明書」新潟県教育庁文化行政課


南城トップ藍澤南城文化財指定書|南城と三餘堂|南城年譜
学塾三餘堂関係資料の概要学塾三餘堂関係資料目録(新潟)学塾三餘堂関係資料目録(柏崎)
文化財としての価値史跡案内図書館所蔵南城・朴斎筆跡南城関係資料一覧