藍澤南城史跡案内 |
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●三餘堂跡● | |||||||
柏崎市南条(みなみじょう)のほぼ中央、小高い丘の上に佐橋神社(さはしじんじゃ)がある。三餘堂跡へはその南側の小道を通り正面に見える八石山(はちこくさん)に向かって農道を進む。 まもなく杉に覆われた山に突き当たり、三餘堂跡をしめす標柱がある。道は右に向かって小上がりとなり周囲は草深くなる。すぐに左に曲がったあたりの平坦部が三餘堂跡である。 八石山の支稜末端に位置しており近くには佐橋神社(南条城)や北条城の古跡、遠く西方には米山を望み、濃い緑に包まれた趣豊かな地である。 「梁間八間、桁間十五間総二階造(柏崎文庫)」という大きな母屋を中心に、茶室、土蔵、小屋などを配した広大な屋敷だったことや、八石山の水を引いたという心字池、築山、滝などが造営されていたことが藍澤家に残る見取り図などから伺い知れる。 近年、南城に関心が高まるにつれ、現地を訪れる人も多い。しかし、八石の自然にとけ込むように、学塾跡はひっそりと深い杉林に覆われている。 藍澤家に残る見取り図、絵画、写真や関甲子次郎(せききねじろう)の大著「柏崎文庫」などが、往時の三餘堂の様子をかろうじて今に伝えている。 三餘堂 三餘堂の地は 八石山脈の西麓 松阜の上ニあり 講舎 梁間五間 桁間十五間 総二階造り 後山に墓地有り 四代の墓碣并び立つ 庭園亦佳あり 近く鯖石川ニ臨み 遙ニ米山黒姫を西南ニ望み 八石の群巒鬱然として後を擁す (「柏崎文庫」関甲子次郎著より) |
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●藍澤家墓所● | |||||||
三餘堂跡からさらに道を進むと右手の山へと小道が続く。右に左に曲がりながら5分も歩くと右手の雑木越しに市街地方面の展望が開ける。そこは八石の山の支稜中腹、墓所の入口である。 数段の石段をのぼると目の前に墓碑群が16基立ち並んでいる。 右手には「藍澤家之墓」、正面に右から藍澤雲岫(うんしゅう)の妻米子の墓、雲岫碑、南城の父北溟(ほくめい)の墓、南城碑、朴齋(ぼくさい)碑が、そしてそれらをとり囲むように一族の大小の墓碑が立ち並ぶ。 南城、朴齋の碑はいずれも碑高2mを越す大きなもので基壇に自然石を建てている。雲岫の碑は積み上げた石組みの上に建てられ、背面には業績などが刻まれている。北溟の墓は三餘堂三代の碑に比べると小さめだが墓列中央に位置し、眼下に鯖石川(さばいしがわ)の流れを望んでいる。 夏は濃い緑に覆われ、落葉の時期には南条はもとより、北条(きたじょう)、加納(かのう)そして米山(よねやま)までも望むことのできる絶景の地である。 藍澤南城石碑 高 さ(地面〜碑頂) 2.71m 間 口(基壇最下段) 1.15m 奥行き(基壇最下段) 1.55m |
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●光賢寺(こうげんじ)● | |||||||
鯖石川(さばいしがわ)をはさんで南条(みなみじょう)の西に位置する加納(かのう)にある。浄土真宗大谷派、天正年間の創立。当初南蒲原郡大崎村に設立されたが火災にあい、天正8年加納に移転したものである。 南城の父北溟はここにあった滄浪館(そうろうかん)で寺沢石城に学び、やがて小千谷の片貝(かたかい)の朝陽館の塾長をつとめるにまでなる。滄浪館の建物は現在も光賢寺境内に残る。 光賢寺からは鯖石川ごしに八石山がよく見え、南条も一望の下にある。また、境内には寺沢石城の墓が、裏山には柏崎市指定文化財のねずの木(樹齢千年)がある。 寺澤石城 寺澤石城(享保一三年〜享和二年)は、出雲崎の生まれ。名は成憲、字は子監。江戸に出、 服部南郭(はっとりなんかく)に経史を学ぶ。後に帰郷、加納に住み眼科医の傍ら漢学塾「滄浪館」をはじめる。 近郷から教えを請う者多く、南城の父北溟、今井龍門(りゅうもん)、西巻碧水(へきすい)などの門弟を輩出する。 寺澤石城墓誌 光賢寺裏の墓地入り口に、杉の大木を背にひときわ高く大きく、石城の墓がある。 左右および裏面には、弟子今井鏡洲(いまいきょうしゅう)選書の碑文が刻まれている。この墓誌は、石城の生涯の 概略を今日に伝える貴重な史料となっている。 |
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●関氏屋敷跡● | |||||||
南城(なんじょう)の母班(はん)の生家跡である。南条(みなみじょう)の中央、佐橋神社(さはしじんじゃ)の杜を目前に、八石山(はちこくさん)を遠くに望む。南城は幼少時、父北溟(ほくめい)と共に片貝で暮らしていたが6歳のときに北溟が病没し、母とともにここに戻る。母班は機織りなどして南城と南城の妹佐和(さわ)の養育にあたった。 南城は十代になると朝陽館や江戸の片山兼山のもとなどで学び、28歳で再び南条に戻る。八石山の麓に三餘堂を開塾するのはその翌年のことである。 現在、関家は隣接地に移転し、かつての屋敷跡は田となり往時の痕跡はない。 |
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●● 案 内 図 ●● | |||||||
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